EARTHLING

３ 　
　虹のふもとへ向かい落下するエアボード。
　後にユージスはこの時の事を次のように語った。「私のような機械でも走馬燈が見えるんですね」と。このユージスの発言は大きな議論を呼び、「機巧の暗黒」事件の発端ではないかという騒ぎにまで発展した。しかしそれはまた別のお話し。
　アーサーもこの時、走馬燈に似た幻を見ていた。
　自分が目指した虹のふもと。そこに肌色の、恐らく裸と思える女性のシルエットが見える。不思議な事に目の前の虹はそのシルエットがかざす右手から、空へ向かって橋を架けているように見えるのだ。そう、まるでそのシルエットの女性が虹を作っているかのように。
　そして、シルエットの女性と先ほど垣間見えた浴衣の少女、二人の面影が重なった瞬間から、アーサーの意識は途切れてしまった。握った手は離さないまま、その体重をもたれ掛かったハンドルに預けている。
　一方、主人を失い虹のふもとへ向かって落下を続けるエアボードを、それでもユージスは懸命に制御していた。使用可能な全ての逆噴射ノズルを使って制動を掛け、落下のスピードを殺す。少年を起こす事は既に諦め、その余力は各システムから送られてくる膨大な量のエラーコード処理に回す。さらに保護膜（プロテクトスキン）を無理矢理、逆向きに展開し落下傘のように使用する苦肉の策。風圧に耐えられず、すぐに破れてしまう膜（スキン）を瞬間的な修復で何とかつなぎ止めながら、ひたすら重力に逆らう。
　その努力が実り、徐々に落下速度は低下。何とかアーサーが傷つく事もなく、エアボードも壊れる事のない速度まで落ち着いたのは、地上3mの位置だった。
　直後。
　膜（スキン）を修復する原料が尽き、抵抗する術を失ったエアボードは砂浜に突き刺さる。
　衝撃で少年は4m近くも前方へ放り出されてしまった。幸い柔らかい砂地がクッションの役目を果たし、少年が怪我を負う事はなかった。ＣＭＣであるユージスがそこまで計算していたかは推して計るべし。
　だが無傷で助かったとはいえ、アーサーの今の格好はどう見ても滑稽である。身体をくの字に曲げ、胸まで砂に埋まっている。まさにコメディ映画に登場する“人間が地面に突き刺さった格好”そのままであり、くずおれ固まった様は蛙のようだ。
　格好悪い事この上もない。もし、少年が今の自分の姿を写真に撮られ、誰かに見られようものなら、半年は人前に出られなくなっていたかも知れない。
　しかし、悪い時に悪い事は重なるもので、彼の今の姿を間近で見てしまった人物がいる。その人物はしばらく目を見開いたままアーサーの突き出された丸いお尻を観察していたが、それが全く動かない事を確認すると恐る恐る近づいてきた。
　全裸の彼女は海で泳いでいたのだろう、健康的な肢体が濡れている。素肌に張り付いたはちみつ色の短い髪が色っぽい。年齢はアーサーと同じ14〜15才くらいで、これから女らしくなるであろう兆しを見せる少女である。
　彼女は突如、空から降ってきた少年を興味深げに覗き込んだ。蛙のそれのようにだらし無く、くの字を描いたまま固まっている両手足。
「ヴゥ……、ヴヴ…ゥ…」
　呻き声が聞こえる所を見ると生きているようだが、その四肢は動く様子がない。
　少女はおもむろにアーサーと砂との間に両手を差し入れ、力を込めて持ち上げ彼を仰向けにひっくり返す。それからその場へ腰を下ろし、たたんだ膝の上に彼の頭を載せる。顔の周りに付いた砂を丁寧に払うと、少年にも少女にも見える優しい顔のラインがあらわになった。
　少女は人差し指でその頬を撫で、つついてみる。
　張りのある肌の感触。温かい肌の弾力。
　彼女の表情が思わずほころぶ。少年の顔に似た優しい微笑みが少女の表情を形作っている。
　少女の指は彼の顎から頬へと流れる輪郭のラインを辿り、耳たぶに至る。その柔らかさを指先で弄び楽しんだ後、鼻の頭を撫で、その指は唇の上へ添え置かれた。
　少年の唇から漏れ出る吐息の熱は、確かな彼の生命を感じさせてくれる。
　少女は唇に沿ってその輪郭を時計回りに一周するよう指を動かし、次にそれを自分の唇へ当て同じようになぞる。
（ほっぺが温かい……）
　少女の思考がわずかにピンク色へ傾倒する。指から自分の唇を伝わってくる熱が頬を温めている様だ。
　今度は少年の頭に右手をあてがい、静かに髪をすくえば柔らかな感触が返ってくる。他の人が触れば「芽吹いたばかりの麦の穂を触っているようだ」と形容される手先の感覚を、少女はしかし表す事が出来なかった。
　今の彼女の頭の中にはそこまでの言葉を綴るだけの表現力が備えられていない。たとえ備えていたとしても、彼女は口からその言葉を発する事が出来るかどうか不安だった。
　自分が何者であるのか、証明してしまうようで怖かった。
　だから、なおも少女は彼の顔をいじり回した。
　優しく優しく。柔和な表情を浮かべて。
　少女が再び少年の唇をなぞり、鼻から額へ向けて指を動かした時、彼のまぶたがわずかに動いた。
　身じろぎをする様に少しずつ開かれる彼のまぶたを覗き込み、その一挙手一投足を見逃すまいと目を見張る少女。
　少年のまぶたがゆっくり持ち上がる。
　虚ろな目が互いの瞳の合わせ鏡に映った姿を確認しようと焦点を結び始める。
（僕は何をしてたんだっけ……？）
　状況の確認と、空白の時間を埋めようとアーサーの頭が覚醒し始めた。
（……遅刻しそうになったから道を急いで…、見捨てられた道（スクラップドルート）を使って…、それから……）
　徐々に明白になる意識と共に、彼は自分の目の前にある物を視認していく。両目の欲求に導かれるまま、上体を起こしそれへ近づく。
「女の子……？」
　最初に口をついて出たセリフがそれだった。
　そして、その先を理解した時、少年は突如意識がハッキリし真っ白になるのを感じた。
　少年は少女の優しい笑顔に迎えられるよりも先に、その素肌に見とれてしまったのだ。
　そして思わず…。
　ッブシュウウウゥゥゥゥゥゥ………。
　ダムの放水よろしく鼻血を噴き出しながら、昏倒した。
　服のたぐいを一切身につけていない少女の姿は、思春期真っ盛りの彼にとって、刺激が強すぎたようだ。
　気絶こそしなかったもののすかさず1m近くも後ずさり、恥ずかしいような困ったような表情を浮かべて固まってしまっている。時々、半開きになった唇の端がヒクヒクと痙攣を繰り返す。
　少女はそんなアーサーの行動を不思議に思い、近づいて顔を覗き込もうとする。アーサーが示した反応の意味が分かっていないので、余計たちが悪いかも知れない。
　惜しげなく寄せられる裸身がアーサーの思考回路をショートさせていく。
「ちょっ！　まっ！　うわっ！」
　意味の分からない声を上げ、両手を振り乱して彼女が近づいてくるのを阻止しようとするアーサー。
　少女の肌が触れた所が、ヤケドをしたように熱い。特にパンツの中は否応なく高まり、アーサー自身、どうしたらいいか分からないほどの熱を持っている。もし抱きつかれでもしたら、もしそこに触られでもしたら、どうなってしまうか分からない。
　猛烈な勢いで早鐘を打つ心臓。身体全体が脈打っている。
「ストーップ！　ストップ！！」
　それこそ目を白黒させながら、少年は必死に近寄ってくる少女を押しとどめようとする。少女が近づき、少年が後ずさるという攻防は5mにも渡って繰り返された。やがて一向に自分を近寄らせてくれないと悟った少女は、その場に四つんばいの姿勢のまま留まった。上半身を支える腕がどうにか彼女の胸を隠しているため、アーサーの高まりは抑えられていた。彼のすぐ後ろで波とそれにさらわれる砂の音が聞こえる。
「…………」
「…………」
　相変わらず円く大きくなった目で少年を見つめている少女。
　アーサーも彼女の目を見つめながら、つい視線は鎖骨から肩のラインを捉え…。いけないいけない。少年は必死に自分の中の熱いものと戦っている。
（これ以上、後ろへ逃げられないしあとは…）
　半ばパニック状態の少年にそれ以上の選択肢が思いつくはずもなく、
「きっ、きき君は、だ誰！？」
　アーサーは少女に話しかけた。声の震えなど気にしいてる余裕もない。
　一拍の間をおいて。
「私は誰？」
　少女が初めて口を開いた。
　きれいな声だ。いや注目すべきはそこではなく。
「だ、誰って聞かれても…」
　質問を質問で返される。それ以上に的を射ていない彼女の言葉はかえって少年の頭の中を冷静にさせていく。
「あなたは誰？」
　何か不安なのか。蚊の鳴くような、吐き出す息にようやく音を乗せたような少女の声。
「僕…、僕はアーサー。アーサー・パイオニア」
　努めて緩やかに言葉を紡ぐ。恐らく彼女が普段使っている言語は自分とは違うものなのだろう。こことは違う州の生まれ。異文化の人。それがどういう理由でここにいるのか知らないけど。
　まだ湯気の上る頭で少年はそう推理した。そういう所に気をそらしていないといらぬ方向に意識が向いてしまう。
「キ、キミの名前は？」
　唇の端が痙攣しているのを分かっていても笑顔を繕い少女に問いかける。
「…………」
　一瞬の沈黙。
「私は。HMBX-12、マルチ、ダイヤトーン」
　彼女が発したセリフは緻密に組み上げられたプログラムのように精巧で濁りのない発音だった。奇妙な違和感を覚えるものの、これでようやく少女の謎が一つ解き明かされたことになる。
「マルチ…。よ、よろしく」
　名前という、得体の知れない目前の少女を表す記号が与えられただけで、こんなにも落ち着けるものだろうか。一時は沸騰するほど乱れていた少年の心が水を打ったように静まり返る。彼はごく自然に笑顔を作り、ごく自然にしゃべることが出来た。
　もっとも彼女から逃れるように上体を反らしたままではあったが。
　少年のセリフを受けて少女マルチは円く大きかった目を、一度、より大きく見開いてから、すぐに優しい微笑みを浮かべる。
　幼い頃、絵本で見た女神さまのようだ。そう感じるアーサー。
（何だ。変だけどイイ子みたい…）
　けれど。
　そう思ったのもつかの間。
　少年の目が視界いっぱいに迫る少女の双丘を、そしてそれ以上に魅力的な果実のように赤い少女の唇を捉えた。
「！！！！」
　突然、マルチが体を寄せアーサーの額にキスを落としたのだ。彼が気を抜いた瞬間を狙って。
　直後、カジノのスロットゲームのような勢いで白目をむき、アーサーは気を失ってしまった。最後に記憶できたのは少女の赤い唇と遠ざかっていく波の音。
　少年はそのまま自分の重みに任せ大木が倒れる時のようなゆったりとした速度で仰向けに倒れ込んだ。頭の数cm先を波飛沫がかすめる。
　少年の意識が途切れたことを確認すると、少女は柔和な微笑みを浮かべて立ち上がった。
　髪を伝って滴り落ちたいくつもの滴が太陽の光を吸収して虹色に輝く。
　そして。
　マルチは何処までも高い青空に向かってまるで延びをするように両手をかざした。
　
　それから約1時間後。
　水をぶっかけられてアーサーは目を覚ます。
　待ち合わせ時間から30分過ぎても連絡をよこさない少年を心配して、アルフォンスが探しに来たのだ。
　その後、待ち合わせ場所のTCM33番ゲートに着くまで、アルフォンスは「お前が悪い」の一点張り。結局、アーサーはみんなを心配させたお詫びとして昼食をおごる羽目になった。
　バイトの給料日前の非常に痛い出費だった。