EARTHLING

１ 　
　リビングにあるアナログ時計は今日も変わらず、時を刻み続けている。
　一定のリズムで繰り返される鼓動。人間のような、曖昧な感覚に左右されず決して狂う事はない。
　過去から未来へ連綿と続く時の生命がそこにある。
　今、リビングを横切った彼もそれを実感していた。ただ彼にはそのリズムが一定ではなく、早鐘のように刻まれる自分の鼓動と同じ非情なものに感じられた事だろう。
　玄関に駆け込みライトシューズに両足を突っ込んだ。
　同じ瞬間、リビングの時計の長針が8時34分を指し示した。
　髪型の最終チェックをする間も惜しみ、外へ向かって駆け出す。
「行ってきまーすっ！！」
　朝の穏やかな空気をかき乱す、快活な声が響く。
　勢いよく開け放たれた玄関の扉の向こう側から飛び出したのは、あどけなさの残る少年である。
　栗色の艶やかな髪をショートに切り揃え、額にはグラスゴーグルを載せている。スカイブルーのＴシャツの上に、真っ白なパーカーを羽織り、膝小僧が見え隠れするくらいの生成り色の半ズボン。母方の血を受け継いだ、コロコロとよく動く澄んだ黒い瞳が印象的である。
　彼は開けた時と同じように玄関の扉を勢いよく閉め、傍らに立てかけられていたエアボードへ手を伸ばす。グリップをつかみ、折りたたまれているハンドル部分を慣れた手つきで素早く引き延ばした。
　ボードへ飛び乗り、ハンドル中央の四角いプレートを親指の腹で押せば、いつものように鼓動を始める重力制御装置。
　そして本人識別を促すメッセージが、空中に投影された映像と音声によりアナウンスされる。
「こちらスオッシュ社製エアボードSGB-27aです。本人確認のため登録番号と氏名を名乗って下さい。
　なお、同時に右目をハンドル中央のプレートへ近づけて下さい。網膜による確認も行います」
　アナウンスを聞き流しながら、一連の動作を行う彼。
「登録番号JPN19824-1138。アーサー・パイオニア」
　幾分早口で決まり文句を告げた。
　急いでいるのだ。
　出来ることならこの手順を飛ばしてすぐにでも出発したい。
　アーサーと名乗った少年の顔にはそうした焦りの色が浮かんでいる。
「確認完了。本人と認識いたしましたG.C.49年5月14日8時36分」
　待ってましたとばかりに彼はグラスゴーグルをしっかりと掛け直し、右のこめかみの辺りにあるパネルに触れた。ゴーグルがわずかに発光しその画面内を高速で文字が下から上へ流れていく。エアボードとの相互制御通信が開始されたことを示す認識信号である。
　もっともこの速度で流れる文字を視認することは不可能なのだが。
　その流れが途切れるのと併せて、アーサーは右ハンドルを一気にひねり、蓄積されたエネルギーを解放させ、弾丸のように通りへと飛び出した。
　瞬間、空気を貫く音。
　眼前に迫る向かいの壁。
「！」
　素早く左旋回をしつつ体を左へ傾ける。
　景色が壁の白から道路の黄土色へと流れていく。
　ボードの底が地面の重力から離れ、壁と平行になった瞬間、
「よっ！」
　今度は体重を右へ寄せる。
　ボードが再び地面の重力に捕らわれたのを見計らい、さらに加速を掛けた。
「イヤーッ！」
　奇声を発してその加速度を楽しむ。
　アーサーは外気の風を感じられるこの瞬間が好きだった。
　すると突然、どこからともなく声が聞こえた。
「イヤー！　ではありませんよ、マスター。
　危うく壁にぶつかる所だったではありませんか」
　礼容で、それでいて愛嬌を感じさせる声。
「別にいいだろう？　ユージス」
　アーサーは面倒そうに答えた。
「よくありません！　あのような操縦ではいつ事故を起こしてもおかしくないのですぞ。御身は大切にしていただかなければ…」
　セリフに合わせてグラスゴーグル内の速度計、時速30kmの表示が点滅した。
「ハイハイ。承知いたしました」
　そう言いつつチラッと目線を走らせた先。外からは見えないグラスゴーグルの画面内で動き回るキャラクターが居る。コントロールマスコットキャラクターのユージスである。
　頭の上に載っかった２つの三角形の耳に、球形の頭部、筒状の体が続き、その下は丸みを帯びた円錐。足は付いていない。円筒の体から蛇腹チューブ状の腕が伸び、その先に球形の手と、同じく球形の３本の指がくっついている。
　体色は青を基調とし、所々に円や正方形などの単純な幾何学紋様が白や薄い黄色で描かれている。
　眼の部分はゴーグルを掛けたような横一文字の白線が入り、その中で両眼が動いている。
「まったく…」
　“ハイは一回で結構”という当然のツッコミを飲み込んで、ユージスは質問した。
「して、今日はどちらへ行かれるのです？　マスター」
　今日は休日であり、朝から急ぐ必要はないはず。
「TCM33番。９時だ」
「９時ですか！？　今からでは間に合いませんぞ！」
　ユージスは半ばあきれた様子で遅刻確定の判定を下した。
「裏道を使えばなんとか。検索よろしく！」
　飄々と言ってのけ、ユージスにウインクを送るアーサー。
「まったく。休日まで遅刻間際とは、退屈を持て余さなくてもすみますね」
「おバカ」
　笑いを含んだ語調で応じる彼の頭の中では、既に候補となる道順が３つにまで絞り込まれている。
「検索完了。最適と思われる…」
「“思われるルートは３つです”だろ？」
　ユージスのセリフに途中から重ね合わせて、アーサーが告げる。
「マスター…。分かっているならなぜ」
「理由は２つ。
　一つはルートの確認。細かい所までは覚えていないからな。
　２つは渋滞情報が欲しかったからだ」
　得意そうにフフンと鼻を鳴らすアーサー。
　それを見てＣＭＣの彼は、両手をあげた“お手上げ”状態で首を左右に振った。
「フー…。
　まったくあなたというお方は…」
　ユージスはそれ以上何も言わず、ゴーグルの画面内に３つのルートを表示させた。
　操縦は自動的にセミオートへ切り替わり、アーサーの安全が確保される。
「無渋滞を基準に早さと安全性から検索いたしました。
　早さと安全性が高いのはルート２ですが…」
　解説を交えながらルート２の地図を展開させる。
「マスターの好みはこちらでしょう」
　確信を持ってユージスが展開した地図はルート３である。
「早さを最優先に。安全性は保証いたしかねますが」
　地図に示されている所要時間はほかに比べ、10分近く早い。その代わり、所々に政府公布の正式な道路地図には載っていない道路が含まれている。
　少年の頭の中で描かれていた道順もほぼ同じである。
「よく分かってるなぁ、さすがだ」
「いえいえ」
　顔を赤く染め、照れ隠しにポリポリと頭をかくユージス。
「よし、ルート３に決定。
　ついでに…」
「“ついでにリミッターも解除できるようにしておいてくれ”ですね？」
　先ほどのお返しにユージスが少年のセリフを代弁する。
「ああ」
　わずかに口調を渋らせるアーサー。
「リミッター解除のタイミングはいつものように音声パスワードをどうぞ。
　何度も言うようですが、連続10分以上のリミッター解除はボード自体が耐えられませんぞ」
「分かってる」
　そう言って彼はスロットルを目一杯引き絞った。
　静かな爆発音を上げて、ボード最後尾の下部にある噴射ノズルから噴き出すイオンの量が増大する。
「イヤーッ！」
　彼は拳を空に突き上げながら再び雄叫びを上げた。
「ほら、ユージスも一緒に」
「私は…」
　真っ直ぐに自分を見つめるアーサーの瞳。重ねて左目をウインクされてはユージスも断るに断れない。
「せーのっ、ヤーッ！」
「ヤーッ！」
　ユージスとアーサーはお互いの雄叫びと共に拳を突き上げた。