EARTHLING

　室内に充満する熱気と赤い閃光。
　次々と鳴り継いでいく警報。
　冗長な反射音がこの空間の規模を伝えている。
　けたたましく躍動するリズムは、白衣を着た所員達の鼓動を一層早くする。
「経過時間は！」
　室全体を見渡せる奥まった座席から男が静かに問う。
「回線専有から4分50秒です！」
　空中に浮かんだ画面を凝視しつつ、トップグループのオペレーターが答えた。
　冷静な口調で答えを返した彼の額には大粒の汗が光っている。
　赤は人を興奮させ、緊張を強いる。
「所長！　危険ですこれ以上は！　緊急手段を！」
　別の男が白衣を翻しながら声を張り上げた。既にその語尾は震えている。
「バカ！　現状では無理だ！　被害が拡がるだけだろ！」
　わずかに感情を乗せて怒鳴る所長と呼ばれた男。彫りの深い顔と相まって、彼の言動には常に威圧感と説得力が同居している。
「しかし途絶しますよ！　全地球圏の通信網がこのままでは！」
　白衣の男は鬼気迫る声で応戦したが、所長はその忠告に耳を貸さなかった。
　言われなくても分かっている――そう所長の表情は語っている。
　彼は思った。人に意見するよりも自分のすべき事をしろ、と。この状況では、一つの情報漏れ、一瞬の判断ミスが大惨事につながる、と。
　瞬間、彼の表情が曇り、額にどっと焦燥の汗が噴き出す。責務の重さは重々承知していたはずだが、改めて鉄の塊のようなその重圧に押し潰されそうになる。
　軍に在籍しているとはいえ、彼は単なる分析官でしかない。ましてや最前線とも言える現況での経験は皆無なのである。
「所長！　Ｉ．Ｓ．Ｓ．との通信が全て途絶しました！」
「現在、使用可能な回線は26本のみです！」
「第128番回線の防壁が突破されました！　第2防壁に取りついていきます！」
　次々とイヤホンを通して進言される報告は、彼をさらに追い込んでいく。
　事態はひっ迫している。一刻の猶予も許されない。
　冷静になれ！　冷静になれ！　自分に言い聞かせているその願いは、彼の行動の端々からあふれ出し、空気の性質を変化させて周囲へ伝染していくかのようだ。
　警報と警告ランプがそれに拍車を掛ける。
　白衣に反射した赤を見るたび、体温が上がり呼吸は乱れ、血圧が上昇する。
　鼓膜を振るわす報告と警報の音波は鼓膜を超え、脳までをも共振させているようだ。
　所長は恨めしそうに、赤い運命の光を見上げた。
　同時にそれを作った者を恨んだ。
「ハッ」
　まぶたを閉じ軽く息を吐く。次に目を開いた時、その瞳にはもう感情の揺らぎは感じられない。まるで満々と水をたたえた湖のように深く穏やかな瞳がそこにあった。
　もう一度、赤い光を一瞥すると、所長は即座にヘッドセットの通信ボタンを押した。それまでひっきりなしに喋っていたイヤホンが沈黙する。同時にその場に居合わせた全員のイヤホンも、警報も一切の発言を中断した。
　全員の視線が、通信監視管制室の最奥部にいる所長へと集まった。沈黙が支配したこの室において、現状の緊急性を主張するのは、点滅を繰り返す警告灯と、彼らオペレーター達の後方に据え付けられた、巨大なパネルスクリーンが流す警告情報だけである。
　注がれた視線を一つ一つ捉えながら所長は慎重に声を発した。
「全員、落ち着いて状況に対処してくれ。我々が冷静さを欠いたら、被害はこの月面人工知能研究所だけでなく、地球本土にも及ぶ。恋人や家族、友人達が巻き込まれるかもしれない。守れるのは我々だけだ」
　喧噪によってヒートアップしていた空気が一転、凍てついた真冬の星空のようにシンと静まりかえり、緊張感をみなぎらせていく。
　駆け抜ける電子機器のノイズ音。
　曖昧だった状況が声という記号を会して伝えられることで、所員たちの意識を明確な目標へと導いた。
　「現状が確認できたら各自作業を再開せよ！」
　肯く者。拳を握る者。所長と同じように気を引き締める者。反応は各々である。一様に緊張感が高まったことだけは確かだ。
　室内の所員たちが再び忙しく動き始めるのを確認し、所長は前面の巨大パネルスクリーンの報告に目をこらす。
　状況は思わしくない。決して所員たちの能力が低いわけではなく、それ以上に敵の解析・演算能力が高すぎるのである。
「アッサム、解析できたか？」
　所長はすぐ隣の座席で作業を進めている所員に声を掛けた。
　彼は7日前に配属されたばかりの新任所員である。彼もチェイサーとしての能力が高く、セカンドグループ・リーダーと並ぶほどの実力を持っている。
「まだです。予想以上に相手のスピードが速く、輪郭を捉えることが出来ません。背中が見えたと思ったらダミーだったり、ようやく追いついたら他の回線へ逃れてしまったり。
　完全にあしらわれています。このままでは相手の思うつぼです。」
「そうか…」
　所長は奥歯を噛み締めた。
　これだけの能力を持つ所員を揃えても正体が掴めない相手とは何者なのだろうか。この月面人工知能研究所を妬む者の犯行だろうか？　それとも研究データの奪取が目的だろうか？
　これだけのスピードを出せるのならば、その設備規模はこの人工知能研究所と同等以上であるはずだ。ならば単に愉快犯というレベルではないだろう。必ず何らかの目的があるはずである。
　逆説的に考えればそれだけの相手なら、追跡に対する防衛策もかなり強固であり、おいそれと尻尾を出すとは思えない。
「並みの相手ではないということか…」
　1人静かに愚痴をこぼした所長。
　すると突然、それまでとは種類の異なる警報がスピーカーを震わせた。
「何事だっ！？」
　所長はそれが、ファイアーウォールプログラムの断末魔の叫びと分かっていながら、あえて問いただしていた。
　理解したくなかったのかもしれない。あるいは許せなかったのかもしれない。自分が育ててきた4年間の成果を破壊されることが。
「敵は最終防衛障壁を突破！！」
「ホストコンピューターに次々侵入していきます」
「所長！　このままでは全てのデータが侵入者に掌握されてしまいます！」
　もうどんな対策も意味をなさない。
　所長は手が白くなるほど強く拳を握ると、コンソールへ叩きつけた。怒りとも悲しみともつかない表情で、直ぐに正面の巨大パネルスクリーンを見据える。
（この号令だけは出したくなかった…）
　心の奥底で誰に許しを請うでもなく呟くと、重々しくその口を開く。
「全所員に告げる」
　インコムを通し、どこか乾いた声が全所員のイヤフォンへと伝えられると、まるで所長の心境を表すように振動板が弱々しく震えた。
「これ以上の侵入を許せばホストコンピューターの機能が掌握されてしまう。ホストの掌握は地球圏のネットワークの半分を掌握されたのと同義だ。
　故に当研究所のシステムを一度シャットダウンし侵入者の驚異を払拭する」
　所長はここで一度言葉を切り、目の前で立ち回る親友の後ろ姿へ視線を送る。
　無慈悲にも彼を殺してしまいたい衝動に駆られる。それどころか今、目前の全ての事象を破壊し尽くせればどれほど楽だろう、自ら引導を渡すことが出来れば誰かに蹂躙されるよりもマシだ、と思ってしまう。
　一瞬、脳裏をよぎった考えをあわてて否定する。今までの研究が自分の中でどれほど大きなウェイトを占めていたか、改めて彼は思い知らされた。
「フォースグループ！　各関連機関、企業、グループへ緊急伝達！　現状とシステムのシャットダウンを連絡しろっ！　最優先事項だっ！」
「所長っ！　ちょっと待って下さい！　グラフの表示がおかしな値を示しています！」
　所長の悲鳴にも似た命令と共鳴する様に、アッサムが同じ口調で声を上げた。
　続いて流れる様な手つきで、コンソールを操作し、眼前のパネルスクリーンへ自分が監視していた画面を映し出した。
「これを見て下さい。ネットワークの転送量の値が全て反転していきます！」
　思わずアッサムの顔とパネルスクリーンを見比べる所長。いかにも信じられないといった表情が浮かんでいる。彼の言うとおり、本来、プラスの値を取るべき項目がすべてマイナスへと反転しているのだ。
「どういう事だこれはっ！？　何が起こっているっ！？」
「先ほどの警報を起点に全ての値が反転しました！　入力とされていた信号ラインが全て出力に変換されていますっ！」
「つまりは…？」
「つまり我々が外部ネットワークに対し、ハッキングを掛けている状況ですっ！」
「なっ！！」
「っ！」
　所長とアッサムの会話は、たまたまスイッチが入ったままになっていたインカムを通じ、室内の全員へも伝わっていた。
　一瞬で室内に再び静寂が訪れる。
　あり得ないことだ。所長は自分の耳を疑ったが決して幻聴ではない。それでは我々が今まで監視していたものは何だったのか？　システムの故障ではない。自分が設計したのだからその点については絶対の自信がある。
「所長！　外部ネットワークに対し、大量のデータ送信が始まりました！」
　悩んでる暇はない。傍観していればその間にも事態は悪化していくだけである。何かしらの対応策を講じなければ本当にすべてが、この月面人工知能研究所だけでなく、ここへつながれているすべてが破壊される可能性があるのだ。
「フォースグループ！　先ほどの指示をすぐに実行せよ！　確認後、この研究所のすべてのシステムをシャットダウンする！」
　一刻の猶予も許さず彼は決断した。もはや事態は自分たちで解決できないほど大きくなろうとしていた。
「所長！　各関連部署からの返答を確認！」
「了解！
　各グループリーダー！　緊急停止プログラムを起動しろ！　全システムをシャットダウンする！！」
「了解！」
　各グループリーダーの声がスピーカーの中で共鳴する。
　同時に自分のコンソールにもプログラムを呼び出す所長。画面に現れた各グループリーダーを示す赤い枠に“承認”を示す記号が順番に灯っていく。
「各グループリーダーの承認を確認！」
　所長は4つの赤い枠の下にある、一回り大きな自分を示す赤い枠に親指を押しつけ、同時にマスターキーとなっているセリフを続けた。
「月面人工知能研究所所長アキラ・セレッション。
　コードA-88。“誰がために血を払い、我と共に地を歩まん”。
　…………全システムシャットダウン！！」
　直後、プログラムの起動を示す赤い文字が画面に浮かび上がった。
「……………」
　深い悲しみの表情で所長はその文字を見つめる。まるで我が子の命を自らの手で奪ってしまったかのような、後悔の念が彼の心の奥底を渦巻いていた。
「……？？
　所長、変です。システムが停止しません」
　数瞬、間をおいて訝しげに申告したアッサム。
「なに？」
　感傷に浸っていた所長の意識が現実へと引き戻された。
「どういう事だっ！？」
「分かりません！　システムは稼働したままです！！」
「バッ！　そんな事がっ！」
　そんな事があるわけはない！　緊急停止プログラムの回避など、外部からでは不可能だ！
　疑いつつ正面のパネルスクリーンを見るが、確かにシステムは停止せず、外部ネットワークへのアクセスを続けている。
「……こんな、……バカな」
　放心した様子で彼は自分の座席に力なく腰を落とした。
「…！
　所長！　データ送信量がまもなくピークを迎えます！　高負荷のため他の施設のネットワークにも危害を及ぼす可能性がっ！」
　オペレーターの鬼気迫る報告を受けても所長は何も答えない。虚ろな目で画面の光を瞳に映している。
　我が子を手にかけたという後悔の念と、我が子に裏切られたという失望をほぼ同時に味わっては、無理のない事だろう。
「所長！」
　アッサムの問いに彼はようやくノロノロと立ち上がり、生気のない乾いた声で指示を飛ばした。
「……各関連部署へ現状をすべて報告。
　残存および、予備回線を使い、最低限の管理通信回線だけは確保しろ…」
　所長はそれだけ告げると再び座席に腰を下ろし、静かに自分のコンソールを見つめた。
　皆が忙しく動き始めるのを尻目に、しばらくそこだけは光を反射しない宇宙空間の特異点のように、沈黙が支配していた。
　それから数十分間にわたって送信され続けた巨大なデータは月面人工知能研究所だけでなく、地球圏全体の通信網を大混乱に陥れたのだった。