４
体制の崩れた相手の脇腹へ、小狼の渾身の右手が突き刺さる。
幸い犠牲は盾にした左腕の切り傷だけだが、本番はここからだ。
右手が触れるやいなやもう１人の小狼、正確にはそのもう１人の小狼を通して“死鏡”へ、魔力が吸い取られていく。小狼の右手はもう１人の自分に張り付いたまま離れない。
これこそが彼の狙い。
痛む左手で素早く印を結ぶ。
「急々如律令！！ 黒洞！！」
相手に密着している右手の平に、黒い気配が生まれる。
間を置かず、指の間から漏れる黒い霧。それはあっという間に濃密な雲のようになり、回転を始めた。
すると、偽物の小狼から“死鏡”へ向かっていた紫色の流れが突然、逆流する。小狼の手の平で生まれた黒い雲の回転速度と大きさに合わせるよう、それは徐々に加速していく。
流れの向きが変わり、吸引力の弱くなった相手の身体から、右手を遠ざける小狼。そこで生まれていた物は黒い渦を巻く小さな台風。その目に向かって“死鏡”からもう１人の小狼へ至る魔力の流れが次々吸い込まれていく。
これが小狼自らが編み出した新しい護符の力。問答無用に周囲全ての魔力を吸い込み無効化する“ブラックホール”。その威力は絶大だ。“死鏡”の吸引力など物ともせずその魔力を吸い込んでいく。ブラックホールの名の通り、全てを吸い尽くすまで停止しない。
ただし、この護符には１つ大きな欠点がある。敵味方の区別が無く、発動させた術者の魔力をも吸い尽くしてしまう、いわば諸刃の剣。もし発動させた術者よりも相手の魔力が上回っていたら、相手の魔力を吸い尽くす前に、護符を制御している術者の魔力が失われ、護符は暴走してしまう。
小狼の見立てでは“死鏡”と自分の魔力は同等か、わずかだが自分が上回っているように感じた。だからこそまだ未完成な“ブラックホール”を使ったのだが。
少年の予想は外れた。
“死鏡”の魔力の減少に合わせ、偽物の小狼の身体が少しずつ薄くなっていく。“死鏡”から供給される魔力が少なくなっていることに由来するのだろう、その透明度は50％くらい。対して今の小狼の中に残っている魔力は30％にも満たないだろう。このままでは“死鏡”の魔力よりも先に小狼の魔力が底をついてしまう。
発動させてしまった以上、この護符は途中で止めることは出来ない。この時点で小狼の負けは決定した。
だがしかし、彼の表情に悲しみの色は浮かばない。
小狼にはまだ奥の手があるのだ。例え全ての魔力を失ったとしても彼には“死鏡”に無い力、“生命力”がある。“死鏡”がどれほど強力であろうと無機物である以上、“生命力”は持てない。これを魔力の替わりに放出すれば“ブラックホール”の制御は可能だ。
それは文字通り“生命を削る”技。魔力は回復させることが出来るが“生命力”は回復させられない。確実に彼の寿命が縮まるだろう。
（…俺にはまだ荷が重かったか…）
後悔の念が少年の頭を過ぎる。そして彼女の、さくらの悲しみに満ちた顔が浮かぶ。
出来ればそんな顔はさせたくはなかったが、何も知らない彼女があの鏡に触れてしまい、同じ苦しみを味わうよりはずっとましだ。
笑顔が無理でもせめて彼女に危険が及ばないように。
それは少年魔術師の切実な願い。何よりも守りたいもの。
小狼が想いを巡らせている間にも魔力は次々吸い取られていく。もう偽物の小狼は輪郭が空気に融け込むほど薄くなっている。小狼の魔力も間もなく尽きるだろう。勝負はそこからだ。
「……さくら…」
小狼が一番守りたい女性（ひと）の名を呟いた。
その時だ。
「小狼くんっ！！」
まるで彼の言葉に応えるよう、聞き慣れた声が響いた。
幻聴だろうか。確かめたくても振り向く余裕はない。
もう間もなく、間もなくだ。死に神が鎌を振り上げるのは。
自分を律し、両手に力を入れ、体内で巡らせていた“生命力”を手の平に集めていく。
いよいよ魔力が尽き、“生命力”へ切り替えようとした、まさにその瞬間！
「盾（シールド）っ！！」
小狼のすぐ後ろで聞き慣れた、決して聞き間違えることのない声が響いた。
“死鏡”、偽物の小狼、そして護符を囲むように星の力が働き、閉じこめた。
“ブラックホール”の呪縛から解き放たれた小狼は、その場で片膝をつき、
「ハァ――――…………」
大きく息を吐く。
見ると、閉じこめられた結界の中で黒い台風の目は魔力を吸い続け、間もなくそれが完了しようとしている。小狼に残された魔力は本当にあとわずかだった。
「大丈夫っ！？ 小狼くんっ！？」
戸惑いの表情を浮かべた彼女が少年に駆け寄った。
疲弊した身体に染み入る少女の甘い声。
「ああ。ありがとう」
いつもの調子で答える小狼に安心したのか、少女の表情が少し明るくなった。
既に護符はその役目を終え、盾（シールド）の結界の中で、小さな黒い渦へ変化している。印を結び、活動を停止させる小狼。盾（シールド）の結界の中にも関わらず“ブラックホール”を操れたことから、どうやら小狼の魔力と彼女の魔力は干渉しないらしい。
「……相変わらず不思議だな。お前の力は」
問いかけても少女は首を傾げるだけ。
（いかにもさくららしい）
小狼はそう納得した。
「さくら。
あの鏡の力を盾（シールド）の結界で封じてくれ」
「…うん」
どこか釈然としないまま、少女は呪文を紡ぐ。
「かの者の力を封じよ！ 盾（シールド）！」
発動中だった盾（シールド）の結界が、風船がしぼむように小さくなり鏡を覆う。
ようやく全てが終わった。
肩の荷が下り、安堵した小狼。
しかしまだ大変な仕事が残っている。
振り向けば、らしくないジト目で自分を見つめる少女がいる。
「その鏡、取りに来たんだけど…。
どういうことか、お父さんの報告会が終わった説明してね？」
愛くるしい笑顔と対照的に声は笑っていない。
――たくさん心配させて。何も話してくれなくて。それでいて自分だけで全部解決してしまって。ちゃんと無事でいてくれて。――
そんな感情が全部ない交ぜになって彼女の頬がぷぅっとふくれている。怒っている。
背中がそう語っていた。
良い言い訳は思いつかず、少年は一言、
「ゴメン」
と謝った。
それが今、彼が彼女に向かって言える精一杯の言葉。
ついさっきまで生命をも惜しまず自分の使命に心を燃やしていたというのに。小狼の心の中は今、彼女の事で一杯だ。
少年の中で、彼女はどんな事件よりも、不思議で、難解で、大切で、重要な事なのだろう。
そっぽを向いていた少女が何かを納得したのか、“紫鏡”を台座ごと胸に抱えると、
「行こう？ お父さんの話、聞きに来たんでしょ？」
そう言って少年を促し、今度は本当の笑顔を見せた。
魔力を使い果たし、疲労困憊だったはずの小狼は、それだけで疲れが吹っ飛んでいた。
「ああ」
一言答え、隣りに寄り添う。
その後、彼女に白衣のことを指摘されジャケットに着替えるまで、少年はそのことをすっかり忘れていた。当然、鏡を藤隆に届けるまでの間、どちらが鏡を持つかで一悶着あったことは言うまでもない。
＊
藤隆が行った講話は素晴らしいもので、“紫鏡”に対する新しい見解を小狼は目を輝かせながら聞き入った。
藤隆は来られないと断ったはずの彼がいきなり来たことを特に聞かなかった。それどころか小狼がどう説得するか悩んでいた李家で“紫鏡”を保管することについても、最初からそうするつもりだったといつもの笑顔で告げた。
その会話中、微妙すぎる発言でしどろもどろになる小狼だったが、改めて自分を優しく見つめてくれる藤隆に尊敬の念を抱いた。
小狼が残した事件の跡は偉が全て後始末をしている。
さくらには好奇心たっぷりに色々と突っ込まれた。今回の経緯。“紫鏡”について。白衣が似合っていたこと。床に積まれていた銃については誤魔化したが、鏡を怪しい組織が狙っていることは告げた。そして受けた傷を散々心配され、最後には、
「私も小狼くんのお仕事、手伝わせて！」
と約束させられてしまった。
李家の詳しい内情についてはまだ話せないが、今度からは彼女にも仕事の内容を話さなければならない。
嬉しくもあり、頭の痛い問題が小狼の中に増えた。
何はともあれ、オーパーツ“紫鏡”を巡る騒動はこれで解決した。
