２
ピチョン――――…………。
堅牢な地下室を満たす水音の響き。
少年の顎先から滴り落ちた汗が小さな小さな水たまりを作っている。
向かい合う２人の小狼に動きはない。
そして猶予の時間も残り少ない。
もうこれ以上、この睨み合いに溺れているわけにはいかないのだ。
何かこの状況を打破する方法はないのか？
小狼は考えを巡らせ、結局はある結論に達する。
“先手必勝”、“攻撃は最強にして最大の防御”。つまり相手が動かないのなら、こちらから動かすしかない。
（……仕掛けるしかない…か…）
それが小狼の結論だった。
半ば石になりかけていた指先にゆっくりと神経を行き渡らせる。
攻撃に転じようと覚醒を始めた意識の中に、抑えていたはずの不安や恐怖が頭をもたげてきた。
未知のモノに対する負の感情。
小狼は指先に意識を集中させることで、それを頭の中から追い出す。
次第に白一色へ染まっていく少年の心。
あとはもう、機械のように、正確に相手の急所を狙うだけ。
自分を取り囲んでいた全ての音と映像が消えた瞬間、
少年の中で何かが弾けた。
＊
小狼が目的地の駅へ降り立った時には既に予定の時間から大きく遅れていた。
辺りを見回す。整然と伸びる幅の広い道路がどこか古代の巨大都市を思わせる。初夏の割りに暑さを感じないのは、そこかしこに植えられた緑のおかげだろう。空を塞ぐような高い建物がないのでより清々しく感じる。
都心から約１時間。つい最近開通した路線の終着駅を擁する新興学園都市。今日の仕事がなければ一生、訪れなかったかもしれない。
小狼は腕時計を一瞥し、仕事場となる施設へ急いだ。
予想外の数の尾行を撒くため、彼は貴重な時間を浪費してしまっていた。結局の所、尾行は全て偉に任せ、自分はここへ来ることに専念した。改めて今日の標的の重要さを噛みしめる小狼。
周囲から視線を悟られないよう掛けたサングラスの奥、少年の瞳に強い意志が宿っていた。
センター地区から20分ほど歩いた位置にある研究機関の施設。ここが小狼の目的地だ。石とガラスで覆われた現代の巨大彫刻。周囲をぐるりと鉄柵で囲まれ、厳重な警備体制が敷かれたここは、ある種の要塞とも言える。この中にはセキュリティで雁字搦(がんじがら)めにされた貴重な発掘品や研究成果が眠っている。それらは全て莫大な富をもたらす元となる。
（まるで悪者に囚われたお姫様みたいだ）
建物の裏口前まで侵入を果たした小狼が心の中で苦笑した。
備品倉庫らしき物陰から素早く周囲を見渡し、人の気配がないことを確認すると、小狼は手にしていた鞄から変装用の衣装を取り出した。着ていた黒いスーツのジャケットを脱ぎ、畳んで鞄の中へしまう。次いで取り出した衣装を広げ手早く羽織った。
真っ白な白衣。左胸にIDを付け、首からカードキーをぶら下げる。細い銀フレームの眼鏡を掛ければ一端(いつぱし)の研究員の出来上がり。背は高くないのだが、頭の小さい均整の取れたプロポーションのおかげで怪しまれることはない。
鞄を抱え小狼はもう一度、眼鏡のレンズ越しに周囲を伺った。その眼鏡には彼の“視る”力を増幅させる機能が備わっている。
魔力も結界も働いていないことを確認すると、少年は裏口を見張る監視カメラ周囲の空気をコントロール、カメラのレンズに虚像を結ばせた。その力が発動している間、少年は透明人間となる。カードキーや入り口の認証セキュリティは偉が細工済み。
偽物の研究員は堂々と裏口の扉を開け要塞への侵入を果たした。
＊
宝剣同士が鈍い金切り声を上げて交わった瞬間、少年は理解した。
目の前のもう１人の自分はまさに自分その物なのだと。
拮抗した宝剣を間に挟み、向かい合う２人の少年魔術師。表情こそ違えど、押し合う力が同じなら繰り出す技も同じ。
そして自分だけが分かる弱点も同じ。
無表情で汗を滴らせるもう１人の自分を、焦点を失った瞳で睨み付ける小狼。
そう。その状況でも分かってしまう自分の弱点。踏み込む瞬間、ほんの一瞬だが利き足への体重移動が遅れるのだ。そこを狙われればいとも簡単に自分の型は崩されてしまう。
これは師匠である偉でさえも、小狼自らが告白しなければ気付かなかった小さなクセ。
実力が拮抗、と言うより完全に同じだったからこそ気が付くことのできた勝利への鍵。
仕掛けた甲斐があったというものだ。
（…………フ……）
少年の顔に誰にも見せたことのない酷薄な笑みがうっすらと浮かぶ。
再び鈍い金切り声を上げ、宝剣の交わりが解かれた。
そして小狼は手にしていた宝剣を手放した。
もう１人の小狼はその様子を無表情のまま傍観している。
次の一手で決める。少年は決意したのだ。
自分を守っていた結界を解く。続いてとっておきの護符を取り出し、何事かをそれに向かって囁いた。青く色付き燐光を放つ護符。蜘蛛の糸のような細い光の筋が、目の前の自分へユラユラ伸びていく。
右手にそれを構えて、小狼は相手へ向かって一気に踏み込んだ。
同じようにこちらは宝剣を構えたもう１人の小狼が一気に踏み込んできた。
多少のダメージは覚悟の上。肉を切らせて骨を断つ。
小狼は焦点の失った瞳で確かに、自分の弱点を捉えていた。
