１
外界から遮断された異空間。
静まりかえった室。
その場所は他に比べ格段に鋭利な雰囲気を漂わせている。
静謐な空気の中を時折惑うカビの臭い。
ここは地下。いくら換気設備を充実させ、国宝級の発掘品を守ろうとしても、カビなどの細菌類が少なからず繁殖してしまうのは当然だろう。
棚に整然と並べられ、出番を待つ発掘品と思われる土の塊たち。判然としないその群れの向こう。
この保管室の中でも一際開けた広いスペースがある。本来は運び込まれた物の一時保管や分別などの作業に使われるその場所に少年は居た。
額に汗が滲む。
今の小狼にそれを拭うことは出来ない。
むしろこの気温で汗をかくことが不思議だが、不快なそれを彼は皮フの細胞と重力の、望むままにした。握りしめた宝剣の先を改めて見る。
切れる寸前まで引っ張られた糸のように。器の限界まで満たされた水のように。異常な緊張感の中、彼はずっとその体勢を維持している。
両足を前後に開き、心持ち体重を前に載せている。半身のままの上半身。宝剣を握りしめた右手は大きく前へ突き出され、左手は柄に近い刀身の腹の上へ添えられている。
目の前の相手をじっと見据えたまま、微動だにしない。見つめ合った目はどこまでも隙が無く、それでいてどこか空虚。
目をそらせばそれだけで負けてしまう。
再び頬を伝う汗を小狼は拭わない。
なぜなら今、目の前に対峙しているのは彼自身。
いかなる超常の業か。彼の目に映っているのは確かに自分自身であり、その様相は誰が見ても双子としか思えないものだった。
握られた宝剣は相手の喉元を捉えている。相手の体勢も鏡に映したように全く同じ。
２人の小狼は互いに止めの一手を握りしめたまま５分近くも固まっていた。
いや、もしかすると今の彼らに一般的な時間の感覚は当てはまらないのだろうか。一瞬が永遠にも引き延ばされ、その渦中において刹那に全てを懸けて戦う。彼らは今まさにそうした常軌を逸する時の中に意識を飛ばしているのであろう。
２人の小狼にとって重要なことは彼らが今、この場にいるという事実だけなのかもしれない。
（…………なぜだ）
麻痺した感覚の中、小狼は真っ直ぐ偽りの自分を見つめている。
（…………なぜ、こんなことに）
意識の奥深くで今の状況とは隔離した自分の中のもう１人の小狼に疑問を投げかける。
（……なぜ……）
小狼は緊張を崩さぬまま、自分の中の自分と対峙してここに至る経緯を回想する。
（……そう、あれは１週間前）
もしその心中が偽りの、目の前の自分に悟られれば…。
＊
「ホントですか？」
いつになく高い声で小狼は驚きを表現した。そしてその喜びも。
いつにない訪問者の声を、リビングで惚けていたテレビの画面が弾きかえす。
「ええ、君のように熱心な方が来てくれれば、こちらとしても大歓迎ですよ」
夕食を終えた食卓を片付けながら、藤隆は目を輝かせる小狼と対照的に、優しい笑顔を浮かべている。
久しぶりに家族団らんの食卓で夕食をごちそうになり感動したばかりだというのに、小狼はそれにも劣らない幸福を感じていた。
「でも、それって部外者は…」
「建前上はそうなっていますが、それほど厳密な報告会ではありませんよ。家族なら連れて行っても構いませんし、僕もさくらさんをお手伝いに連れて行こうと思ってたんです」
藤隆が微笑みかけると愛娘は嬉しそうに頷き返す。
「桃矢くんは来週も月城くんと一緒に試合へ出るそうなので。
小狼くんさえ良ければ来てみませんか」
再度、藤高は優しく微笑みかけてくれる。
さくらが言う所のはにゃ〜んとは少し違う笑顔。
父親の居ない小狼にとって目標としたい笑顔。
隣りに張り付いたさくらもしきりに行こうと誘ってくれる。またとない甘い柔らかさと声。
だが…。
「お誘いは嬉しいのですが、来週の土曜日は所用が入っていまして」
浮き足立ってしまった自分を律して、丁寧に断る小狼。
彼のすぐ後ろに置かれた電話が疑問の表情を浮かべる。それはさくらも同じ。
「その日は偉が、本家から人が来ることになっているんです。ですからここはお断りさせていただきます」
小狼は立ち上がり、頭を下げた。
彼を支えるよう、押された椅子とさくらが寄り添う。
彼がどんな想いで今の言葉を紡いだのか。さくらはよく分かっている。普段の小狼がどんなに父の仕事に興味を持ち、好きになってくれているかを。
李家のことを持ち出されてはさくらは何も言えない。それがあの絶対の信頼を置いている偉が来るとなれば。もちろん、偉を恨んだりはしないし、文句もない。けれど残念で仕方がなかった。良いことが重なることが必ずしも良いこととは限らないのだ。
「そうですか。
それじゃ無理にお誘いするわけにはいきませんね」
「本当にせっかく誘ってもらったのに…。
次の機会には必ずお受けします」
「必ずですよ。楽しみにしてますから」
そう言って藤隆は再びあの笑顔を見せた。
小狼はその意味を確かに受け取った。
それから、後片付けを手伝い、藤隆が新しく発掘を始めた遺跡の事を教わり、ケルベロスとさくらの他愛ないお喋りを聞いた後、小狼は木之本家を後にした。
偉から予め受け取っていた連絡の内容に確信を持ち、決意を新たにする小狼がそこにいた。
