1.
雪白の闇の中――。
安らかに響き合う鼓動を感じる。
上も下も分からないフラフラと惑う意識の向こう側。
身体全体で共鳴し合う確かな生命のリズム。
それは自分の鼓動、心臓の音。
そしてもう一つは心を震わせる彼女の鼓動。
白濁していた意識がゆっくりと向こう側から戻ってくる。彼女の心臓の音に導かれるまま、頭の中が覚醒していく。
始めに意識したのは触れあう素肌の温かさ。その奥に秘められた生命の鼓動は彼女の芯の強さを感じさせるようで、無性に愛しさが込み上げてくる。
それから胸板に感じる彼女の小さな吐息。ちょっとくすぐったくもあるけれど、それがまた心地良さに繋がっている。最初に耳へ届いた彼女の息遣いが自分の思考に色彩を添えてくれたみたいだ。
そして右の手の平から伝わってくる、絹の糸を束ねたような滑らかな感触。彼女の柔らかさを求めて伸ばした左の手の平からは、更に大きさを増した彼女の鼓動。
「……ん」
彼女が小さく声を漏らす。
少年は瞼をゆっくりと開いた。
瞳に飛び込んでくる光りが眩しい。かなりの体力を消耗したらしく、今、自分が置かれている状況が判然としない。
彼は何かを確かめるよう、恐る恐る視線を落とした。
ハチミツ色の髪が光りを柔らかく照り返している。
それは今、唯一はっきりしている事実。
この世界で最も大切な存在が自分の腕の中にいると言うこと。
右手から伝わる髪の手触り。彼女の背中の左側、ちょうど心臓の上に置いた左手から伝わる鼓動。そして身体の前身頃全体から伝わってくる柔らかさと温かさ。
それらは視覚で認識することでより一層少年の心に染みこんでいった。
彼女はまるで赤ん坊の寝顔のような安らかな表情をしている。
その右手は彼の左胸に添えられている。その左手は彼の背中側から回され右肩を掴んでいるようだ。
裸で抱き合い、こんなにも無防備な姿を見せてくれる少女を少年、小狼は堪らなく愛おしく思った。
彼は今、この上もない幸せに満たされている。
「……さくら」
愛しい彼女の名前を囁く。
「……ん」
少女が再び声を漏らした。
それから小さく身じろぎをして少年を見上げる。
「……小狼くん」
まだその瞳は夢見心地のままのようでトロンとしているが、艶やかな色は影を潜め、代わりに天使の羽根のような優しさを湛えている。
「……さくら」
小狼はさくらの髪を梳(す)き解(ほぐ)しながら、もう一度、名前を囁いた。鼻腔をくすぐる彼女の髪の薫りと相まって。
少年は誰にも見せない、本当に屈託のない、素直な微笑みを少女に投げかけた。
「！」
さくらの心臓が一度大きく跳ねる。その後に訪れる余韻が柔らかな熱となって全身に広がっていく。
あぁ、なんて。なんてステキな表情をするのだろう。今、目の前にいるこの男の子は。
何もかも任せて自分を預けてしまいたいような、何もかも捨てて彼を守ってあげたいような。
そんな相反する気持ちが胸をキュッと締め付ける。
大好きだけでは足りない、愛しさが溢れて止まらない自分の心。
彼女は今、彼の腕の中でこの上もない幸せを感じている。
「小狼くん」
今度ははっきりとした口調で彼への想いを込めてその名前を呼ぶ。
彼の背中へ回していた左手に力を込め、更に右手も反対側から彼の背中とソファーの間へ差し入れる。
言葉よりももっと素直に自分の気持ちを表せる方法で。自分の身体を彼にもっと密着させる。
（ウワッ！）
今度は小狼の心臓が飛び跳ねる番だった。
（マズイ……）
ただしさくらとは違う意味で。
「エヘヘ…………、？」
覗き上げた小狼の顔にはなぜか焦りの色が浮かんでいる。さくらはちっちゃな疑問符を頭の上に浮かべた。
「どうしたの？」
普段はあまり見られない彼の表情が、さくらの頭の上の疑問符を増やし、好奇心を駆り立てる。
質問を投げかけても彼の瞳は泳いだまま落ち着かない。
しばし小首を傾げていたさくらだったが、それはすぐに解決した。
自らの体感を持って。
（……ぇ！）
自分の下腹部で熱い何かが硬く大きくなっていく。つまりそれは…。
「キャッ？」
さくらは素早く上半身を起こす。しかしここがソファーの上であることをすっかり忘れていた彼女は、そのまま左手から床へ滑り落ちてしまった。
「さくら！」
小狼も素早く身体を起こし、床に落ちたさくらを助け起こそうとする。
「大丈夫か？」
声をかけた瞬間は少女を助けることで頭が一杯だったが、彼女がやおら身体を起こしたときに少年の目は見逃さなかった。彼女の胸の頂きで存在を主張する突起。そして何より彼女の下腹部で滑光(ぬめひか)る自分が吐き出した白濁を。
愛しい彼女のそんな姿を間近で見てしまえば、冷静沈着な小狼といえど下半身の暴走を止めることは出来ない。
「ありが……」
さくらも少年に促されるまま彼の手を取った瞬間に見てしまった。彼の股間のモノが再び力を取り戻していく様を。肌色の皮に包まれ、少しだけ顔を覗かせていた血液のように赤い先端部が、力を得て徐々にその姿形を露わにしていく過程を全て。
２人はお互いの身体に見入ったまましばし固まってしまう。
それは異性の身体への好奇心と驚き。見てはいけないものを見ているような小さな小さな背徳感が視線を逸らさせてくれない。
高鳴る鼓動は流行りのロックナンバーよりも早いビートを刻んで。
ゴクリと鳴ったのは果たしてどちらの喉だったのか。
不意にその視線が交錯した。
「キャ……」
「ゴメ……」
２人は小さく悲鳴を上げ、思わずその場に正座をし畏(かしこ)まってしまった。上体は少し前のめり。腕はピンッと張られ、膝の上に置かれた両手は拳を握っている。
収まりかけていたはずの火照りが２人の顔を再び覆っていく。俯いてはいるものの、相手のことを伺うようチラリチラリと瞳が動く度、お互いの変化が手に取るように分かってしまう。心臓の鼓動するテンポは速くなるばかりだ。
気まずさの中に隠れた恥ずかしさ、それがチリチリと頬を焼く。
あんなに生々しい行為の後なのに、何とも可愛らしい反応をする２人である。さくらの親友が２人の性格を現すときに使う“ふんわり”という言葉にはこうした初(うぶ)な意味も含まれているのだろう。
小狼は大きくなってしまった股間のモノを小さくすることで頭が一杯だ。太股の間で滾(たぎ)るそれを何とか鎮めようとするが、この年頃の男の子にそれは土台無理な話し。
時折、すまなそうな表情で彼女の様子を伺う度に彼女の裸身、特に胸の先のポッチに視線が行ってしまい、それは益々、火に油を注ぐ結果となる。太股の間に隠せていたその姿が徐々に表へ出てきてしまうのだ。
一方のさくらもチラリチラリ、小狼の様子を伺っている。目線を戻す度に自分の身体に付いた色々なモノ、特に彼の吐き出した白い粘着物が目に留まる。それは彼女の顔を益々赤らめさせた。ほんの数分前の自分の姿がより鮮明に思い出されてしまう。
小狼に促されるままソファーに押し倒され、激しく腰を打ち付けられ後。ついには自らが彼を押し倒して態勢を入れ替え、少年へまたがりそのまま淫れてしまったのだ。自分の恥態を思い出せば思い出すほど、俯いた少女の顔は火が噴き出しそうなほど赤くなっていく。
チラッと裸の小狼を見る。
しなやかに伸ばされた腕、同じようにしなやかさを感じさせる胸板、首の付け根を形作る鎖骨はどうしてあんなに色っぽいのだろう。
直視していられなくなったさくらは思わず目を伏せる。けれど頭の中に出来上がってしまった彼の姿はちっとも消えてくれない。それどころか、小狼の体温を思い返す度、さくらの心は何とも言えないもどかしい気持ちで一杯になる。その正体が何なのか、さくらには分からない。ただ一つ確かなことはそれを解消してくれるのが小狼だけだと言うことだ。
さくらは助けを乞うよう、伏し目がちに小狼を見た。すると小狼も同じようにこちらを見ていた。
さくらは慌てて目を伏せる。
心臓が口から飛び出しそうなほど激しく打ち鳴らされた。
小狼もまたさくらと目があったことに驚いて、慌てて目を伏せる。
彼女のあの潤んだ瞳と真っ赤な顔は多分、自分と同じ気持ちである証拠。心と身体を責めるどうにもならないもどかしさを持て余しているのだろう。
少年はその正体も解消する方法も知っている。彼女と結ばれるまで、幾度、自分で自分自身を慰めたかしれない。その後ろめたさも手伝ってか、今は身動きが取れないのだ。
チラリと視線を周囲へ送る。自分が剥ぎ取った彼女の衣服が散乱している様は自分の中に眠っていた欲の深さを物語るようだ。ただ一つ、彼女の足に残された白い靴下だけが、余計に犯罪チックで、なぜか扇情的に見えて、たくましく屹立してしまう小狼自身。
少年の心中に情けなさがたれ込めてくる。
こんなにもさくらが好きで大切にしたいと思っていて。
この衝動に任せたまま彼女を抱いてしまったら。
それはオナニー以上に、彼女を自分の欲望のはけ口として、汚してしまうことになるんじゃないだろうか？
情欲と愛念の間で揺れ動く心。それが矛盾と分かっていても少年にはまだ、その折り合いをどこで付けて良いのか、分からなかった。
秒針の刻む音が響くリビング。
カーテンの向こう側から黒く伸びる影が、徐々に長くなっている。
気まずさと恥じらいの空気が満ちた２人の沈黙。
だが、お互いに愛しい者同士。一緒にいるだけで幸せを感じられる２人にとって、その沈黙はすぐに心地良いものへと変わっていった。特にさくらにとっては。
いつの間にか、俯いたままの少女の表情は綻んでいる。恥ずかしさよりも気まずさよりも、少年が夢中で自分を求めてくれたと言う事実が彼女の気持ちを前向きにさせていく。
まだ身体の中でくすぶっている切なさやもどかしさも彼を思えばこそ。そう気持ちを切り替えると不思議なくすぐったさが込み上げてきて顔を緩ませる。
あれほど激しかったドキドキが今は心地良いものへ変わり、ふと張られていた彼女の両腕の緊張が解けた。元々“ふんわり”した性格のさくらだけにこう言ったときの心の余裕は小狼よりもある。
ゆっくり顔を持ち上げ、目の前の小狼を優しく見つめる。人が見たら情けないと言われそうな今の姿も、さくらにとっては愛しくて仕方がない。むしろ叱られた子犬のようで可愛くさえ見える。
さくらの視線に気が付いて小狼はおずおずと顔を上げた。目が合うと彼女は優しく柔らかく笑みを浮かべた。母親が幼い子供に投げかけるような穏やかな笑みを。
小狼はそれまで葛藤していた事など忘れ、その表情を惚けたように見つめる。
さくらの周りだけが柔和に輝いているような、生まれて間もないヒナの羽毛に包まれているような、そんな感覚。
さっきまで渦巻いていたドロドロとした獣のような感情は、嘘のようにキレイさっぱり消えてしまった。
もし天使が実在し、その微笑みだけで人の心を浄化できるとしたら、それはさくらのことではないだろうか。
小狼は改めて、自分の中に芽生え育んできた気持ちを抱き締めた。
しかし、その真綿にくるまれたような時間は長くは続かなかった。エッチと恥ずかしさで一杯だった意識に余裕が生まれれば、それまでは二の次と押し込められていた感覚が戻ってくる。
身体からの欲求。つまり……。
『……ハ、クチュン！」ション！」
２人はほぼ同時に盛大なクシャミをする。２人とも全裸(さくらは靴下だけを履いている)のまま正座をしていたのだから、当然の反応である。
再度、顔を見合わせたとき、２人は今の状況を思い出した。
恥ずかし合って、いつまでもこんな格好でいるわけにはいかなかった。
小狼自身はシャワーを浴びっぱなしでまだろくに髪を乾かしていなかったし、帰宅してすぐ浴室へ向かったものだから、リビングは寒いままなのだ。肌を重ね合わせていた間はお互いの体温で温かいから気が付くはずもなく。
今のクシャミを合図に、急に現実の寒さが襲ってきた。
「ゴメン、さくら。すぐ風呂へ」
言うやいなや、彼女の左手を躊躇わずパシッと掴むと、小狼は彼女を強引に浴室へ引っ張っていく。
自分の身勝手な性欲のせいで、彼女に風邪を引かせるわけにはいかない。さくらには先に風呂で暖まってもらい、その間に自分は部屋を暖め、行為の後始末をしなくては。
リビングから浴室へ続く短い廊下は驚くほど冷たかった。彼女が靴下を履いたままで本当に良かったと思う。一瞬、桃色のビジョンが頭を過ぎる。わずかに萎えていた小狼の性器は再び反り返る。節操のないソレへ彼はキツイ視線を送った。一体、どれほど射精(だ)せばコイツは大人しくなってくれるのだろう。
浴室の扉の前へ立った小狼は、なるべくさくらの身体を見ないようにして、彼女に中へ入るよう促した。
「先に入って暖まってくれ。俺は部屋を……」
１人でリビングへ戻ろうとした小狼の左手首をさくらの左手が掴んだ。
「エ？」
驚き、身体半分だけ振り返る。その時も出来るだけ彼女の顔を見るように。
さくらは俯き、軽く握った右手を口元へ添えていた。
「さくら？」
彼女の行動の意図が読み取れず、小狼は問い掛ける。
「……小狼くんもそのままだと寒いでしょ？」
どう見ても言っている彼女の方が寒そうだが。こんな時でも相手のことを考えられる彼女はスゴイと思う。
「俺のことは良いから」
「ううん、だって……こんなに手、冷たいし」
彼女の言う通り、小狼の身体もすっかり冷え切っていた。一部分を除いては。
「だから、えっと……」
言いづらそうにモジモジした後、さくらは耳を澄まさなければ聞こえないような小さな声で囁いた。
その顔を朱に染めて。
「一緒に入ろ……」
小狼は息を呑んだ。
上目遣いで頬を赤く染め、モジモジと子犬が甘えるような仕草で、この上もない魅惑的な誘いを投げかける彼女を目の当たりにして。
さくらは恥ずかしさを精一杯押し殺し、自分の中の勇気をかき集めて告げた。
小狼の体調を気遣ったのももちろんだが、仕事で疲れているであろう彼を癒やしてあげたいと思ったのもその理由の一つ。
それに、あんなに自分に夢中になってくれたことが彼女の気持ちを後押したのかもしれない。
「背中、流してあげるから……」
答えを保留していた小狼にだめ押しの一言。
この時、彼が何を期待したのか、彼のオトコのコがお腹に付きそうなほど反り返っていく様子をさくらは見てしまった。
けれど一度口から発せられた言葉は、彼女の決意を鈍らせなかった。
「ね？」
「…………ああ」
可愛く小首を傾げる彼女へ、たっぷり悩んでから小狼は生返事を返した。
普段なら決してそんな事を言わない彼女の誘惑で、少年の頭は真っ白になっていたのだった。