魔法少女リリカルなのはFLAME
Overture：「黄金色のスタートライン」

　吹き抜けた風が、薫る――。
　香ばしい、けれど物悲しさを誘う空気。
　木々は、実りを迎えるために命を賭して色付き、山々を色鮮やかに燃え上がらせる。
　熱は和らぎ、その先に訪れるであろう厳しい純白の季節の予感を内包して。
　――再び風が、吹き抜ける。

　頬に掛かる髪は、さらりと泳ぐ紫黒の流れ。
　艶めく黒髪と、それを留める白い髪飾り。
　彼女は風が導く先に目指す目的地を見留め、杖を握る手へ力を込めた。
　赤や黄色に染められた枯れ葉の、絨毯を踏みしめる足音も力強く――。

　視界を覆っていた木々が突如、開ける。
　見渡せば、むせ返るような万緑から、黄金色へと変わった草原。
　この大地は決して豊穣を約束する地ではないけれど、傾き掛けた日差しを受けて煌めく様は、稲穂のそれ以上に美しく、彼の女(ひと)の後ろ姿を思い起こさせた。
　感情が高ぶる。図らずも目尻に溢れるモノがあった。それをひた隠しにするよう、少女はその思いを言葉に代えて零す。
「ただいま……」
　それは誰に向けたものだったのだろうか。
　唇から発せられた音は、文字通りの言の葉となって、背後の舞い落ちる紅葉と共に、風に揺らぎ、溶けた――。
　不意に答えが返ってきたような気がして少女は振り返るが、そこには誰もいない。
　空耳…………？
　もしかすると、彼女ではない誰かも同じようにこの場所で、同じ言葉を紡いだ事があるのかもしれない。その言葉に忍ばせた想いは違ったのかもしれないけれど。
　あの暑い夏を偲ぶよう、空を見上げる。
　空は、どこまでも高くそびえ、儚げですらある。掴めそうだった雲は既に無く、青を競った水平線の彼方は、大きくその色合いを異にしているのだろう。

　季節は巡る。
　絶え間なく、留まることなく。
　花を愛で、雨を愛で、星を愛で、彩(いろ)を愛で、雪を愛でる。
　生きていればこそ感じられる季節の移ろい、時の巡り。
　連綿と続く確かな循環と、１つとして同じ形のない自然の理(ことわり)。
　季節を感じ、その神髄を見据えれば。
　永遠と一瞬の交わりを感じられるはずだ。

　黄金の波間をかき分け、少女はようやくそれを目の前に見つける。
　そこはクレーターのように円形に窪み、黒い土が顔を覗かせていた。
　中心にポツンと白い石の塊らしきものが見える。
　それは墓標。
　三度、風が吹き抜けて――。
　彼女の濡れて重くなっていた目尻を軽くさせた。
　ここに墓がある事を知る者は少ない。ましてなぜここに墓があるのか、その経緯を知る者は本当にごく少数だ。
　そして彼女、月村すずかはそれを知る１人。ここに葬られている者の最後に立ち会った１人。
　胸の奥を熱く焦がすような追憶。
　かつて悲しみが覆い尽くしていた心には今、深謝の気持ちが満ちている。彼女を失った悲しみより、彼女に巡り会えた喜びの方が大きい。
　思いを交わし、日々を過ごせた喜びの方が。
　それらの思いを表情に載せて、黒い円の中へ歩みを進める。
　一歩――、
　二歩――、
　三歩――。
「ただいま」
　すずかは目の前の墓を見下ろし、そう告げた。杖で身体を支えながら、老人が腰を下ろすような速度で膝を折り畳み、抱えていた花束を墓前に供える。
　少しだけ歪んだ顔にすぐ微笑みを被せて。
　その小さな墓石は名も無く、真新しく真っ白だった。彩りに染められた木々が、黄金色の草原が、柔らかくその純白を包み込んでいる。
　少女は静かに手を合わせ、故人を偲ぶ。幾ばくかの時間が厳かに過ぎていく。
　彼女の脳裏を駆け巡るのはあの暑かった夏。
　思わず涙腺が弛みそうになるけれど、今日は悲しみを届けに来たのではない。
「ありがとう。
　こうして今、ここに居られるのも……、貴女(あなた)のお陰です」
　すずかはまた同じようにゆったりと立ち上がりながら、墓石に聞かせるよう語りかけた。
　優しい彼女らしい柔和な笑みを浮かべて。
「アリサちゃん…………」
　見上げた空へ向かって、想い人の名を口にする。誰に問うでもない、答えを求めるでもない呟き。
　視線の先にはまだ夏の残り香のような蒼穹が湛えられている。
　彼女の瞳によく似た青。
　四度目に吹き抜けた風の中に、すずかは確かにその答えを聞いたような気がした。
　彼女、アリサ・バニングスの声を。

＊

　同時刻、海鳴臨海公園――。
　橋の上に佇む少女は、遠く水平線の彼方を見つめていた。
　海面をはやし立てる風が栗色の二房の髪を揺らす。風はその柔らかさを自らに溶かし込み、彼女に与える印象を変えようとするかのように、幾度もそよぐ。
　夏の気配はとっくに消えて、空は遙かに高くなっている。もう次の夏が来るまで、空と海の青が交じる事はない。空は毎日のように高くなり、やがて薄化粧を施され、淡い色になっていくことだろう。反対に海はその紺碧を凝縮させ、濃く深く変貌していくはずだ。それはまさに秋の日のつるべ落としのように、駆け足で。
　まるであの熱い戦いの日々が夢であったかのように、季節は移ろっていく。
　親友たちと文字通り死闘を繰り広げたあの夏の日々――。
「アリサちゃん…………」
　呟いた名前は波間で弾ける泡のように、潮騒がかき消していく。
　呼んでも今は答えが返ってくる事のない、彼の女(ひと)を表す魔法の言葉。
「…………ァ」
　少女はふと腹部に熱を覚え、そっと手を当ててみる。
　アリサによって貫かれた傷はもう完治している。後遺症もなく、身体的には問題がないはずなのだが。――心はまだその感覚を覚えている。確かに少女が彼女と戦った事の証し。
　もしかするとそれは一生消える事がないのかもしれない。
　腹部に当てた手にちょっとだけ力を込め、押さえつける。
　その傷を与えたアリサに遺恨はない。あるはずがない。
　かつて大げんかをして、親友になって、一度だけ「好き」と告白されて。もう一度親友同士になって。
　少女が魔法の世界に巻き込まれてからは、不器用ながらも、天の邪鬼ながらも一杯心配してくれて、励ましてくれた彼女、――アリサ・バニングス。
　少女は顔を上げ、青き天上の王を仰ぎ見る。
　自分が必至で翔(か)け抜けた、そして今も翔(か)けるあの空の色は、アリサの青く透明で真っ直ぐな瞳と似ている。
「アリサちゃん……」
　もう一度、名前を呟いてみるが答えはやはり返ってくるはずもなく、代わりに大きく白く砕けた波が潮騒を持ってそれに答える。弾け舞う波しぶきが輝き、数秒間だけ小さな虹を浮かび上がらせた。
　刹那、吹き抜けた一陣の風が、虹を青空へさらっていく。
　アリサの青い瞳、あの印象的な青空が自分に笑いかけたように少女には感じられた。
　今は臨む事が出来ない、あの力強い瞳――。
　彼女が己の全てをかけ、何よりも守りたかった黒髪の少女を、守りきってみせたあの目差し――。
　少女は透き通った青空に思う。
　自分は誰かのために、何かのためにあそこまで強くなる事が出来るだろうか。
　今まで自分を導き支えてきてくれた人々の顔が、１つ１つ思い出される。自分が守りたい、かけがえのない愛しいモノたち。
　そして、心を過(よ)ぎる紅い瞳と金色の長髪。
　思いを交わし合った誰よりも守りたい少女(ひと)。
　彼女を守るために、自分はアリサのように強くなれるだろうか…………？
　――――いや、今の自分にはそんな自信も、決意も、覚悟もない。
　あの戦いで守れたモノと、守りたかったモノと、守りきれなかったモノ。
　自分がもっと強ければあの結末は違っていたはずだから。
　アリサもすずかも巻き込む事なく、犠牲者を出す事もなく、守りたいモノを守り切れたはずだから。
　まぶたを閉じ、目尻に溜まり始めていた悲しみを大地へ押し流す。
　アリサと交わした約束は、自分が今よりももっと強くなる事で果たされるはずだ。守りたいモノを自分の手で守れるようになったその時に初めて。
　少女はもう一度、腹部に当てた手に力を込めた。
「私はもっと強くならなくちゃ…」
　――――。
「……そうだね、なのは」
　不意に答えが返って来た方向を、少女は振り向いた。
　輝きをはらんだ穏やかな和風(わふう)が吹き抜ける。
　そこには金色の魔法陣があり、金色の光の粒子を振りまくその中から、
「ただいま、かな」
　優しい２つの紅い瞳が現れた。
　彼女は満面の笑みを浮かべる。
「お帰りなさい。フェイトちゃん」
　それから、両手を広げ優しく想い人を包み込む。
　会えなかった時間は一週間にも及び、フェイトの顔を見られない事、それ自体が今の彼女には苦痛だったのだ。
「もう……。なのはは甘えん坊なんだから」
「ゴメンね、今は……。
　でもこんなことできるの、フェイトちゃんにだけだもん」
　優しく響く鼓動。胸の内の想いより自然に紡がれる呼吸。
　２人のそれが響き合う。生命が奏でるハーモニー。心を持つモノだけが感じられる原始のロマンチズム。
　――この安らげる場所がある限り、私は戦える。誰よりも強くなれる。この温もりを絶対守ってみせる。
　栗毛の少女は心の中でそう強く想った。