日付が変わり、時計の長針が文字盤を二周した頃――。
「……ン？」
薄暗い寝室。そのベッドの上から、新しいシルエットがゆっくりと起き上がった。
揺らめく紫黒の長髪。その艶やかな黒額が縁取る、柔和な頬のライン。うなじから鎖骨、肩口を描く陰影は清らかな色香を醸し出す。月光に照らされた肢体は彫りの深い凹凸を白いシーツで形作り、そのすぐ下が素肌である事を物語っている。
緩慢な動きで上を向くまつ毛。瑪瑙(めのう)を思わせる静謐(せいひつ)な瞳に光りが灯った。
――いつの間に眠ってしまったのだろう……。
室内をさ迷う少女の視線。状況はすぐ理解できた。
ベッドの周囲に散乱した下着や肌着。そこから更に、まるでグリム童話に登場するヘンゼルが道標として落としていったパンくずのように点々と、少女の身に着けていた衣服が部屋の入り口の扉まで続いていた。
加えて素肌に残された赤い痕(あと)。わずかに漂うアンモニア臭。
それらは彼女の欲望の残滓(ざんし)。
想い人とお互いを激しく求め合った愛の証し。
少しばかり背徳感を煽られるその痕跡に、少女の頬が赤らむ。シーツ越し、彼女の腰の辺りから微かに漏れた衣擦れの音。生々しい感触が甦ったのかもしれない。
少女はその源を確かめるように、視線をベッドの傍らへ。
そこには彼女と同じように月光の朧気な輝きで、しなやかなシルエットを浮かび上がらせた、想い人の姿があった。
すずかは彼女らしい微笑みを、少年のようなその金髪の少女に投げかける。
安らかな寝息を立てる姿はややもすると、ギリシア神話の女神を模した白い彫像のようだ。月光を透かして浮かび上がるなだらかな双丘から、引き締まった腹部、腰、太股へと続く魅惑的なライン。彼女はすずかの膨よかな胸を羨ましがるが、すずかにしてみれば、モデルのような体型を持つ、彼女の方が羨ましいと思う。
もっとも彼女と今のような関係になってから、この胸は特に大きく膨らみ始めたのだ。その原因があながちこの少年のような女神のせいと言えなくもない。親友の少女がいつも言っていた「好きな人に揉んで貰うと胸は大きくなる」というセリフを実証したようで、ちょっぴり気恥ずかしい。
「クス……」
小さく漏れる苦笑を、室内の闇へと解けさせ。
――すずかはそっと夜空を見上げた。
ナイフのように鋭角な三日月。闇夜を切り取ったような鮮明な輪郭。
大きな窓を通してはがきを差し込むように降り注ぐ白い光り。
潔さと清らかさの裏に強さを併せ持つその光りが、今のすずかにはとても物悲しく見える。
それは強き者が持つ孤高の空気や儚さを感じさせるからだろうか。
いつの間にかすずかの瞳はすっかり白い光りに魅入られて……。
その月光を透かして思い出す、あの事件の顛末(てんまつ)。
まだ胸の奥でちょっぴりわだかまっている思い。
指に刺さって中々抜けない棘(いばら)のように。
あの三日月ほど大きくはないけれど、心の一部が欠片となって抜け落ちてしまったような。
そんな痼(しこ)りのような思いが、三日月を見る度に甦ってくる。
私は彼女と。アリサ・バニングスと恋仲になれたけれど、自分はこんなにも幸せで良いのだろうか？ と。
ベッドサイドのテーブルの上で、十字架のシルバーアクセサリーが白く輝いている。
すずかが月光に魅入られてどれくらいの時間が経ったのだろう。
時計の長針が文字盤の二つ目の数字を数え終える前に、
「――……ん」
すずかの隣りのシルエットが身動(みじろ)いだ。
彼女は三日月から視線を外して、それにそっと触れる。
安らかな表情を見ようと、顔に掛かった前髪を掻き上げる。覗き込んだ寝顔は彼女だけに許された特権。
「んぅ……」
ふと閉じられていたまぶたが薄目がちになり、それからゆっくりと開いた。紺碧色の瞳が姿を現す。
「――……アレ？」
まだ意識のもうろうとしているアリサは、眠気眼(ねむけまなこ)のまますずかの目線を捉える。
「おはようアリサちゃん。――……まだちょっと早いけど」
すずかは苦笑し、アリサの眠そうな声と瞳を受け止める。
「――……おはよ……。ん――……」
そう言って彼女はその愛くるしい唇を突き出して見せた。キスをせがんでいるようだ。まだアリサの頭の中は夢心地なのだろう。
「クス……」
想い人の愛くるしい仕草に思わず笑みが零れるすずか。
寝癖でボサボサになった髪が、一層愛しさと保護欲をそそられる。今すぐ彼女を抱き締めて、その頭を撫でてあげたくなるけれど、それをすると十中八九、アリサは顔を真っ赤にして怒るはずだ。
「フフ……」
その照れと怒りで真っ赤になって抗議する彼女の顔を想像したら、また微笑みが零れた。
「ん？」
アリサの右目が急かすように、一瞬だけ開かれる。
この堪らない表情をもっと見ていたいけれど、募る愛しさはアリサの果実のような唇を求めて止まない。
「……ン」
少しだけ鼻腔から吐息を被せて。
触れ合うだけの軽いキスを交わす。
唇から離れてからもアリサはその余韻を味わうよう、すぐに瞳を開こうとはしない。
彼女のロマンチストな部分が覗く瞬間。
寝起きのこの時だけは、完全にお姫様と王子様が入れ替わる。
「おはよ。甘えんぼのお姫様」
彼女の瞳が開ききるのを待ち、すずかは満面の笑みで迎えた。
「なっ！」
アリサの瞳は、そのまま一気に見開かれた。
すずかと二人で居る時は、王子様としての自覚はあってもお姫様としての意識は薄いアリサにとって、彼女からお姫様と呼ばれる事にはとても大きなインパクトがある。まして甘えんぼなんて形容詞が付けられれば。
「キスをおねだりするアリサちゃん。凄く可愛かったよ？」
そう言って人差し指でアリサの唇をなぞるように触れる。
「ぬなっ！」
それがスイッチであったかのようにアリサの顔は一気に茹で上がり、
「――すっ!! ぅ―…」
叫ぼうとしたその唇が、すずかの人差し指で塞がれた。
「アリサちゃん。今は夜中だから、ね？」
そう言って小首を傾げられては、アリサは何も言えなくなってしまう。行き場の無くなった感情を、そっぽを向くという行動に置き換え吐き出す。
拗ねた素振りはすずかの悪戯心を更に加速させると分かっていても。
「……あの、アリサちゃん？」
「何よ？」
顔を背けたまま、口調は拗ねたまま。
「その、胸は隠した方が良いよ？」
「え……？」
言われて見た自分の胸元。そこには一糸纏わぬ自分の胸が。
「キャッ!?」
彼女らしからぬ悲鳴を上げ、両腕で胸を隠す。もっと恥ずかしい所を見られているとは言っても、やはり改めて見られるのは恥ずかしい。
「…………」
アリサは周囲を無言のまま見回した。
ベッドの上、シーツ以外何も身に着けていないすずかに目眩(めまい)を覚え、床にはベッドのそばから扉へ向けて身に着ける順番に点々と続く衣服が。
アリサの顔が少しずつ、確実に赤く染まっていく。その行為の記憶を反芻(はんすう)しているようだ。
「……そ、それなら早くそう言いなさいよ……。その……、そう言う仲でも、恥ずかしいものは恥ずかしいんだから……」
羞恥心ゆえか、すずかの全裸を意識してしまったせいか、アリサは申し訳程度の声量でそう反論した。
「フフ……」
今夜、何度目かの微笑み。
彼女の駄々っ子のような、負けず嫌いな顔が覗く度、すずかの中でアリサへの愛しさや恋しさが溢れて止まらなくなる。
「何よ。私が起きたらすぐ言ってくれれば良かったのに……。何してたのよ」
アリサの言葉で、一瞬、すずかの表情が陰り、それから彼女らしい柔和な笑みを浮かべて。
「アリサちゃんの寝顔、見てたんだ。可愛いなって」
戯けてみせるがアリサはその一瞬を見逃さなかった。
「……嘘。別の事、考えてたでしょ？」
瞬間、すずかの顔が変化する。月光が持つ孤高の力強さにも劣らない凛とした表情へ。
すずかは思う。アリサには本当に敵わないと。
彼女は一度、居住まいを正すようにまぶたを閉じ、それから窓の外の暗闇に浮かぶ銀細工の月を見上げた。
「すずか……？」
一瞬、アリサには目の前にいるはずの彼女が別人に見えた。
「なに、してたの？」
もう一度、投げかけられる質問。
「うん。月を、見てたんだ」
すずかは視線を外さぬまま、静かに答える。今の時間(とき)が壊れてしまわないように。
「――……そっか」
アリサも納得したように頷き、彼女の横向きの瞳に映り込んだ三日月から、夜空に浮かぶ、三日月を追いかける。
思い出されるあの夏の日々を――。
「……私ね、時々思うんだ」
月を見上げたまま、すずかは静かに唇を動かす。
「こんなに幸せで良いのかなって……」
一つ一つの意味を確かめながら、言葉を重ねていく。
「あの事件を通して私の世界は大きくなって。中々言えなかった気持ちをアリサちゃんに伝えられて」
シーツと同じ色の指が遠慮がちにアリサの指を触り、それから軽く絡ませる。
アリサは何も言わず、ただされるがまま。その頬がうっすらと赤く染まった事に、同じ月を見上げる彼女は気付いているだろうか。
「アリサちゃんと今、こうして居られるのはとても幸せだけど……。それが何だか恐くなっちゃうんだ。
幸せを求めすぎるとね。人の心ってちょっとした事ですれ違っちゃうから」
すずかの指が一際強く、アリサの手を握る。
アリサの瞳は見つめていた白銀の三日月から視線を外し、純白のシーツ、絡み合う白磁の指、そして白い横顔へ至る。
儚い月光によって照らし出されたすずかの横顔。
羨ましいほどにキレイで美しい。ガラス細工のようなその姿は、触り方を間違えれば壊れてしまいそうで。
いつの間にかアリサは、彼女に魅入られていた。
思い返すと、あの事件の発端も好きな人に笑って欲しい、幸せになって欲しい、と言うごくありふれた願いからだった。幸せを求めすぎる余りその思いは空回って、間違いを犯してしまったけれど。
「……幸せには罪の匂いが薫る、か」
自嘲気味に口から零れ落ちる言葉。その行き先を追いかけアリサの視線は一度俯き、握られた白い手を捉える。そして再び、絡み合う白い指から同じ順番を辿り、その持ち主の横顔へ。
「え……？」
アリサの呟きと重なるように、三日月を見上げていたすずかの視線が動く。おもむろに見上げてきたアリサの瞳と交錯する。
流れ動く紫黒の髪。
見据える青い瞳。
アリサは目前の少女の姿そのものに――。
すずかは目前の少女の瞳へ映り込んだ自分自身の姿に――。
まるでお互いが心の合わせ鏡を覗くように、ある少女の面影を重ねる。
彼女の存在は、アリサが王子様として彼女と共に戦った証しであり、すずかが眠り姫へと身を賭(と)していた証しでもある。それはつまり、彼女たちが引き起こしてしまったあの事件の具象、そのものと言える。
だが決してあの黄昏(たそがれ)の騎士は、罪の象徴ではない。
「ううん……。なんでもない」
頭(かぶり)を振り、一言だけ。
アリサにとっては共に激しい戦いを乗り越えた戦友であり、すずかと同じくらい大切な存在。
すずかにとっては共にマスターを、最愛の人を守っていこうと約束した親友であり、自分とそっくりな、双子の妹のような存在。
いや、もしかすると二人にとっては娘にも似た……。
「……また、トワちゃんに会いたいな」
「うん……」
見つめ合い、月光の柔らかい光りの下、少女たちは笑顔を交換する。
こうしてまた言葉を交わし合える、手を伸ばせば触れる事が出来る、抱き締める事が出来る、そんなごく当たり前の日常が、何にも代えがたい宝物である事を教えてくれた、あの夏の戦いは、二人には決して忘れられない日々――。
犯してしまった罪を背負っていかなければならないとしても、この幸せは絶対に守ってみせる。
アリサの瞳はしっかりと見据えられた。すずかへ向けて。
「すずか。私はずっとそばにいるからね。
すずかは絶対、私が守るから。トワと一緒に。今はあの娘が離れているけど」
それは永遠の約束。王子様と、お姫様と、黄昏の騎士と。三人の心に、誰にも触られない大切な場所に仕舞われた秘密の約束。
「……ううん。駄目だよ」
「え？」
アリサの挙動が止まる。思わぬ否定の言葉をすぐには理解できず、口を半開きにしたまま。
すずかの両の瞳は揺るぎなく、真っ直ぐアリサを見つめている。
「守ってくれるのは嬉しいけど、それだけじゃ駄目。私だけじゃなくてアリサちゃんがアリサちゃん自身も守らなくちゃ」
ちょっとだけ窘めるような口調。そう、すずかにとって何より恐いのは、
「アリサちゃんが居ない世界なんて考えられないから。だから私を守るのと同じくらいアリサちゃんも自分の事を守って。もうアリサちゃん一人の身体じゃないんだから……」
「すずか……」
――本当の「幸せ」とは何か？
あの夏の戦いの中で問われたその問いに対して、すずかが導き出した答えはとても単純で当たり前の事。
それは「大切な人と共に生きていく」という、ただそれだけ。
本当の「幸せ」は一人だけでは紡げない。
誰よりも大切な人が居て。その人と支え合い、認め合い、分かち合い、尊び合い、愛し合ってこそ、初めて「幸せの物語」は紡いでいける。
すずかの真摯(しんし)な瞳は、暗にそれを訴えていた。真っ直ぐアリサの瞳を射抜いて。
「……………………」
「……………………」
アリサもまたすずかの瞳を真っ直ぐ見つめ返していた。
心が震えている。身体の奥底から炎のように一気に燃え上がってくる感情がある。
――「彼女を守り、自分も守る」とは即ち「共に生きて欲しい」という彼女なりの比喩(ひゆ)である事は、付き合いの長いアリサにはすぐに理解できた。
すずかがくれたその言葉は、アリサが望んで止まなかったもの。いやもしかすると、それ以上かもしれない。戦いの中で、ずっと願い続けていた結末が今、目の前にある。
一方で、その情熱とは裏腹に自分でも驚くほど、頭の中は落ち着きを払っている。波風の立たない湖の湖面のように。雲一つなく見渡った青空のように。「こんなに幸せで良いのだろうか」と、清々しいほど冷静な問いを投げかけてくる理性。融け合う事のない冷静と情熱の間に挟まれ、躊躇していたアリサだが、ふと彼女の右手が雲を掴むように、すずかの頬へ添えられ――。
王子様はお姫様の唇に、そっとキスを落とした。啄むようにほんのわずかな時間だけ。
強く薫った彼女の匂いと、頬を伝った冷たい感触。アリサは初めて自分が涙を流していた事に気付く。嬉しさの余り零れ落ちた涙。自分がどれほど彼女のその言葉を欲していたか、改めて思い知る。
「ありがとう、すずか」
泣き笑うアリサ。
「どういたしまして」
慈愛の笑みを零すすずか。
「愛してるよ、アリサちゃん」
「!!」
その言葉が余りにストレートすぎて、その顔が余りに可愛かったから。
アリサは顔を真っ赤にして反らす
「……アリサちゃん？」
「……ん、もう！ そう言う恥ずかしいセリフ禁止！」
先程までの嬉し泣きの顔はどこへやら。アリサは目一杯の照れ隠しで、捲し立てる。
「ア、アリサちゃんが先に言い出したんだよ……」
意外な反応と言うよりは予想通り過ぎて、照れ屋なアリサがちょっとだけ腹立たしく思えるすずか。
「あなた一人の身体じゃないのよなんて、どこかの新婚さんみたいじゃないの！」
「……私はアリサちゃんと一緒に生きて行きたいから」
「だからそう言うのを禁止って……」
顔がますます熱を帯びていく。
すずかの歯の浮くような恥ずかしいセリフに照れて、照れている事が恥ずかしくて、それを恥ずかしがっているのが更にまた恥ずかしくて、アリサの顔はすっかりリンゴのようだ。
「…………だったらもっと恥ずかしいコトすれば、今のが恥ずかしくなくなるよね？」
すずかが小悪魔の笑みを浮かべた。
なぜだろう？ 今日のアリサには、もっと恥ずかしがって貰い(もら)たい、もっと悪戯したいという感情が沸々と湧いてくる。
「え？ ちょっ!? すずか!?」
「おもらしまで見られて恥ずかしかったんだから」
「や、もう今晩は……」
「ダーメ！」
白い影が踊る。被っていた白いシーツをマントのように広げ、すずかがアリサに覆い被さった。二人で作った二人きりのテントはしばしの間、激しい凹凸を繰り返していたが、やがて一つの丸い塊へ収まった。
何度も白濁を繰り返す意識の向こうで、二人の少女は感じていた。
連綿と変わりゆく世界の中で、まして移ろいやすい人の心に確かな永遠が存在する事を。
大好きな人を大好きと想える一瞬一瞬が続く限り、それは永遠と同じ事なのだと――。
なお余談ではあるが、二人の少女はその後、朝まで恋人同士なら誰もが羨むような甘くて、気持ち良くて、口に出す事もはばかられるような愛のフルコースを味わったのだった。
もちろん、朝方は一緒にお風呂へ入るというデザート付きで。