クレセントムーン　-闇の薫り-

　バタンッ！　と大きな風圧と共に背後で扉の閉められた音がする。
　扇状に領域を広げていた明かりは姿を消し、室内が一瞬で真っ暗になった。
　瞬間、遠くに聞こえていたパーティーの喧騒はキレイにかき消されて――。
　静謐(せいひつ)な闇と耳鳴りのしそうな無音が支配する空間。
　今、すずかの自室は完全に外の世界から切り離された。
　不意の驚きに身を任せたい所だけれど、状況がそれを許してくれない。突然の出来事で視力が失われたような感覚に陥り、部屋の主は慌ててスイッチプレートを、
「待ってね、今……」
　明かりを付けようと手を伸ばす。けれど急に暗くなったため目が慣れず、目的の感触を手探りするしかない。
　静寂よりもなお静かな場所で、もっとも耳に強く響くのは自分自身の生命の鼓動。
　一定のリズムを刻んでいたそれが徐々に早くなっていく。前の拍動が次の拍動を挑発するよう、互いに少しずつ次々とテンポアップを繰り返し、相乗効果のように急かされていく心臓の音。
　加えて肩を貸しているアリサの身体が徐々に重みを増していることも、鼓動に拍車を掛ける。
　すずかには分かっていた。アリサは「気分が悪くなった」と言っていたが、何か他の要因で彼女の体調が芳しくない事を。
　少しでも早く彼女を楽にしてあげたい、優しく介抱してあげたいと思う気持ちは、返ってすずかを慌てさせる。それはいつも冷静な彼女が、周囲への注意と気遣いを忘れてしまうほどに。
　そう。彼女は気付くべきだったのだ。自然に閉まるはずのない扉がなぜ閉まったのか、それを閉めたのは誰だったのか、を。
「…………？」
　すぐに見つかると思っていたスイッチプレートは中々見つからない。見当違いの場所へ指を伸ばしてしまったらしい。アリサに肩を貸しているから、多少なりとも不自然な姿勢を取っているとはいえ、いつもなら何の苦もなく明かりを付けられるのに。暗闇はこんなにも人の感覚を狂わせてしまうのだろうか。
　徐々に自分がその闇の魔力に覆い尽くされていくような気がして……。
　すずかの身体がわずかに強張った、その直後、
「……キャッ!!」
　突如上がる短い悲鳴。瞬く間にその声は闇の中へ吸い込まれていく。
「…………アリサちゃん」
　わずかに声のトーンを落とし、諫(いさ)めるよう名前を告げる。暗闇の中でもかろうじて分かる彼女の瞳が、名前の主の方へ向けられた。
　悲鳴の原因は耳朶(じだ)を掠めた生温かい微風。
　その正体がアリサの口から発せられた吐息であることは明白だった。
　スイッチプレート探しに四苦八苦するすずかに対して、彼女の悪戯心が芽生えた事は容易に想像が付く。すずかと二人きりになったアリサは時折、妙に子供っぽい悪戯をする事があるから。
　それは愛情を求める彼女の気持ちの裏返しであり、その事を知っているすずかにとっては悪戯をされた不快感よりも愛しさが勝る、まさしく母性をくすぐられる行為。だからすずかが彼女のそうした行為を注意する時は、必ず愛情が先行する。親が子供を叱る時のように。
　だが時として子供は、親の愛情を感じてなお悪戯心を燃え上がらせる事がある。更なる愛情を求めて、傲慢(ごうまん)に優しさを求めて。
「……アリサちゃん」
　今の彼女はまさにその状態なのかもしれない。注意をしてもアリサは相変わらずそれを止めようとせず、すずかは少し困ったような表情を浮かべている。
　ようやく目が暗闇に慣れて、窓から差し込む月明かりだけでも、どうにか部屋全体の様子を見渡す事が出来るようになった。チラリと横目で彼女の表情を伺う。
「…………？」
　あるはずの場所にアリサの顔がない。
　というよりは、すずかが目線を動かすタイミングに合わせ、逃げられてしまったようだ。
　貸していた肩から彼女の重みが消え、代わりに背後からギュッと抱きすくめられる。アリサの両手が素早くすずかの前身頃、おへその上辺りで結ばれ、身体を引き寄せられてしまう。いつの間に外していたのだろう、彼女の指先は素肌を晒していた。パーティードレスの薄手の生地越しに感じていたアリサの体温が強くなる。
　彼女はすっかりすずかに甘えている。それも恋人同士のそれと言うよりは、母娘(おやこ)のそれのように、優しい手触りが感じられる甘え方だ。
「アリサちゃん――……」
　すずかは頭の中から彼女への叱責の念を追い出し、そっと名前を呼ぶ。愛しさと優しさと柔らかさを掛け合わせて、純粋培養したような想いをのせて。
　何か特別にイヤな事か、不安な事があったのだろうか。アリサがこんな態度を見せるのは本当に珍しい。その原因も気になる所だけれど、最愛の人にこんな風に甘えられて悪い気がするはずもなく。
　すずかはアリサの気持ちに答えようと、回された彼女の両手に右手を重ね――……。
　そこで予想だにしない感覚がすずかを襲った。
「アッ……！」
　首筋を伝う生温かい感触。そして滑り。
　すずかの背筋を得体の知れない何かが駆け抜けていく。首を、肩を竦め、その感覚に抗う。必死に抵抗を試みる。それに流されるわけにはいかない。
　その悪寒にも似たくすぐったさの正体をすずかは知っている。その感覚が何を意味するかも。
　糖度を高めすぎたチョコレートはカロリーの過剰蓄積で自然発火する、という笑い話しを聞いた事があるが、今のすずかにはその表現がピッタリと当てはまる。
　母娘(おやこ)のように穏やかだった温もりが、たった一つの行為で恋人同士の甘い抱擁へ変容する。相手を思いやる優しさが一瞬で甘い気持ちに化け、友情として燻っていた種火は一転、情欲の炎へと変質し燃え上がる。同じ相手に対して友情と愛情が同時に存在し、変幻を繰り返すそれは、たぶん同性同士にしか分からない恋愛のカタチ。
　そしてその事実はまるで、自分の奥底に封じ込めていた欲望を無理矢理引きずり出されたようで。すずかにはこの上もなく恥ずかしい。
「ひゃっ……ぁ……っ」
　再び背筋をゾクリとした感覚が駆け抜ける。
　シンと静まりかえった闇はなぜか、その嬌声を吸い込まなかった。鼓動にすら埋もれてしまうような微細な吐息さえも掬い上げ、すずかの鼓膜に届ける。反響させる。
　壁伝いに伸ばされていたすずかの左腕は折り畳まれ、万歳に似た格好を経て、彼女の背後へ移動していたアリサの頭、その後頭部へ回された。右手は彼女のお腹の辺りでウロウロしていたアリサの右手に捉えられてしまう。
　絡み合う指先を通してアリサの熱が乗り移ろうとしている。
「ア……」
　三度、首筋を這う滑った感触。
　それは間違うはずのないアリサの舌の質感。その感触をすずかの全身は実感を伴って覚えている。
「……ヤ……ァ……ア、リサちゃ……」
「……ヤじゃないでしょ？」
　研ぎ澄まされたナイフのように冷たいアリサの声が、スルリと抵抗無く心へ侵入してくる。
　――なんだろう……。
　彼女の声を聞いた瞬間。
　唾液の跡を残した首筋に、吐息が吹き掛けられた瞬間。
　それまでとは違うゾクゾクとした感覚が、胸の奥を締め付けたような気がした。それは自分を慰める時に感じる倒錯した快楽にもどこか似ていて。

　お腹の奥で、微熱が蠢くのを感じた。

　アリサの舌はうなじに幾筋もの湿った軌跡を刻んだ後、背骨に沿って触れるか触れないかの微妙な距離を保ちながら、ゆっくりと下降していく。背中が大きく開いているすずかのドレスでは、その蹂躙(じゆうりん)する舌の感触を和らげる事すらままならない。かろうじて感じやすい首の襟周りを守っているだけだ。
「アリ、サ……ちゃ……止め……」
　なんとか逃げようとしても彼女の腕は、すずかの身体をガッチリと掴まえていて、身じろぎをするに留まってしまう。
　アリサの態度は明らかにおかしい。今の彼女は先程までの柔和な雰囲気と違い、どう見てもすずかを求めている。しかも一方的に性欲を押しつけてくると言うよりは、すずかを誘うように、その気にさせるように、少しずつ愛撫を重ねているかのよう。
　――まさかアリサちゃん、怒ってる……？
　それはすずかが彼女との長い付き合いから導き出した直感。アリサがこんな態度を見せるのは彼女自身が怒っている時に限られる。しかもそれはすずかに対してだけしか見せないわがままである。すずかにしてみれば、それは彼女を独占できているようで嬉しいのだけど、今のタイミングは出来れば避けて欲しかった。パーティー主催者の妹が会場を途中で辞するというのは、あまり良い印象をゲストに与えないだろうから。
　そういえば、パーティーの最中を思い出すと、彼女はずっと不機嫌だったような気がする。話しをしても素っ気ない答えしか返さず、誰からのダンスの誘いも断っていたはず。あげくに具合が悪いというので彼女をここまで連れてきたのだけど。
「アリサちゃんっ……!!」
　小さな、凄味の利いた声で一括。
　力が弛んだ隙に素早くすずかは腕の中から逃れた。彼女の右手から手袋が、アリサの指に絡め取られるようにしてするりと脱げる。ひんやりした自室の空気が理性を縁取り、指先に残ったアリサの体温がその輪郭をぼかそうとせめぎ合う。
「ハァ……。
　どうしたの？　アリサちゃ……？」
　呼吸を整え、後ろを振り返る。
　とても動悸までは収まらない。むしろ彼女を、彼女の姿を、彼女の嗜虐(しぎゃく)に彩られた瞳を見てしまった事で、すずかの心臓が再び早鐘を打ち始める。
　暗闇の魔力に覆われる恐さじゃなく、アリサの勝ち誇ったような、何かを企んでいるような瞳に対する恐さ。そしてもしかするとほんの少しの期待。
　すずかの中で何かが目覚めようとしている。
「…………!!」
　すずかがゴクリと唾を飲み込むタイミングに合わせ、アリサの顔が大写しになり、
「アリ……むぅ……」
　アリサの腕が首の後ろに回されたと思った瞬間には、すずかの言葉は全て彼女の唇に飲み込まれていた。
　アリサの口腔から放たれた桃色の軟獣は、何度も何度も瑞々しい果実の凹凸を確かめ、ほんのわずかな隙を突いて、それを上下に割り開いてしまう。いきなりすぎる展開はすずかの意識から、鼻でも呼吸できるという事実を拭い去っていた。心理的な意味でも、身体的な意味でも息が詰まる。
　（アリサちゃん…………ダメ…………）
　前歯、歯茎、唇の裏側と、侵入を果たした桃色の軟獣は次々、すずかの口内を犯していく。優しく愛おしみながらも、すずかの口内にある官能のスイッチを入れる事を忘れない。アリサの舌がそこを撫でる度、すずかの身体がピクピクと小さな震えを見せる。
　アリサを引き離そうと踏ん張っているすずかの両腕からは、徐々に力が抜け始めていた。心はまだ流されまいと必至に快楽の瀬戸際で踏みとどまっているのだが、すずかの官能のポイントを知り尽くしているアリサに掛かっては、快楽のボリュームを握られている事に等しい。鳴かそうと思えば、いつでも鳴かされてしまうだろう。
　タイミングを見計らって、アリサの右手がすずかのドレスのホックを外そうと彼女の首の後ろをゆっくりまさぐる。
「プハ……アリ、サちゃ……止め……」
　ようやく唇を解放してもらえたすずかは、息も絶え絶えに訴える。
　真っ直ぐアリサの瞳を射抜くすずかの瞳。既に焦点を失い始めたその瞳や、唾液で濡れて光る唇がアリサの加虐心を一層、煽ってしまう事には気付かずに。
　アリサはわずかな間、羞恥に染まるすずかの表情を見つめた後、そっと彼女の耳元へ自らの唇を寄せた。
　冷たい声が囁かれる。
「……ダメよ。すずか……。
　――だって、こうされたいから、こんなに背中を……」
　そしてまたすずかの唇を塞ぎ、
「んふぅ……」
　音もなくホックが外された。
　はらりと襟首から胸元へこぼれ落ちてくる白い布地。ドレスがはだけないのはアリサが密着しているから。
　彼女の右手はさらに、すずかのドレスのジッパーを下ろそうと、腰周りへ伸ばされる。もしそれが下ろされてしまったら、すずかのドレスは支えを失い、重力に任せるまま床へと広がるだろう。
　それが多分、すずかにとって最後の理性の砦。
　だがアリサは知っている。必死に抵抗を続ける彼女の理性の裏には、燃えるような情炎が隠れている事を。自分よりも淫靡(いんび)な肉欲が秘められている事を。
　だからアリサは躊躇うことなく、
「んぅ――……(アリサちゃん!!)」
　ジッパーを下ろし、
「ん、キャッ!!」
　続け様、すずかから身体を離した。
　ほぼ何も留める物が無くなったドレスは、重力に任せ落下する。すずかもそれを追いかけるように、短い悲鳴を上げながらその場へ座り込んだ。
「……………………すずか」
　見下ろすアリサ。
　座り込んでしまったすずかの姿は、捨てられた子犬のように弱々しく、それでいて加虐心を刺激される儚さも纏っている。
「…………私は……。
　……私はすずかが好き。大好き。だから」
　アリサは片膝をつき、彼女の顎(あご)に手を掛けて。
「すずかを独り占めにしたいのよ」
　真っ直ぐすずかの顔を見つめる。
　その表情は瞳を潤ませ、目尻に涙を滲ませている。羞恥に染まった頬。怯えた唇。
　その半開きになった唇は驚くほど卑猥(ひわい)に見えた。
　アリサの指はその形をゆっくりとなぞり、下唇だけをそっと押し下げる。
　半ば強制的に開かれたそこへ向けて、少年のようなシルエットの少女は、自らの口内で溜めた銀色の雫を一滴、狙い澄まして落とした。銀色の糸を引いて。
　それが淫らな欲望の呼び水となるように。
　すずかにとってアリサの唇から伸び落ちてきた銀色の糸は救いの蜘蛛(くも)の糸などではなく、この上もない媚薬(びやく)だったのかもしれない。
　外気へ晒された下着姿のすずかへ。
　そのガーターベルトへ掛けられたアリサの指を、すずかは振り払おうとはしなかった。