放課後の囁き ： Limit Break Voice

　あの日から数日が過ぎ――。
　ようやくこっちの世界の生活習慣に戻り慣れ始めた頃。

　髪を短くしたせいかもしれないけど。耳に届く聞き慣れた日常が今までと少し違って聞こえる。特に自分の名前を呼ばれる時。
　とりわけても――。
「アリサちゃん。一緒に帰ろう？」
　彼女の、私の名前を呼ぶ声、そこに含まれるニュアンスが以前とは違って聞こえる。
「いい、わよ」
　その瑪瑙(めのう)のような瞳で真っ直ぐ見つめられると、心臓を鷲掴みにされるのは相変わらず。
「今日もなのは達はあっちなの？」
　ノロノロとした動きで教科書やノートを鞄に仕舞う。急ぐ理由はない。というより今は急ぎたくない。
「うん。ホームルームが終わったら、あっという間に」
　ちょっとだけ覗き込んでくる深めの視線。ほのかに薫る逆らいがたい甘い匂い。汗の匂いもちょっとだけ。そう言えば４時限目に体育があったわね。
「ホント。よくやるわ…」
　素っ気なく答えるようにしてるけど、私の心はとっくに…。
　顔に出てないわよね。
「フフ♪　アリサちゃんはよく知ってるもんね。管理局のお仕事が大変で、大切な事は」
　さり気ない動作で彼女の全身を視界の隅に収めつつ、私は席を立つ。
「……アンタもでしょ」
　半歩遅れて彼女が付いてくるのを確認しながら教室を出る。うん。いつもと変わらない光景…のはず。端から見れば。
「うん……。
　でも、なのはちゃんたちには悪いけど、感謝しなくちゃ」
　そう言って彼女はその黒艶の長髪を揺らして、通せんぼをするように私の前へ進み出た。真っ直ぐに視線を投げかけてくるその表情は清々しくて。
「こうやってアリサちゃんと２人きりで放課後が過ごせるから」
「――！！！」

　ドクンッ！！

　瞬間。心臓の音以外、全ての音がかき消えて。
　その１回の拍動が廊下の床さえも波打たせたように感じた。
「……どうしたの？」
　彼女が不思議そうにこっちを見ている。
　一歩、一呼吸分、私はそのあり得ない感覚に足を竦ませてしまったようだ。
「う、ううん。何でも」
　慌てて平静を装い反撃に出る。何かちょっと悔しいじゃない。
「二人っきりったって、前にもあったでしょ。何度も」
　彼女を半歩だけ追い越しながらチラリとその顔へ視線を流す。
　多分、その紅葉を散らすように染まった頬の赤は夕陽のせいだけじゃないはず。仕返しは出来たようね。
「……うん。
　だけど、アリサちゃんが告白してくれてからは今日が初めてだよ。２人きりの放課後」
「――！！！」

　ドクンッ！！

　心臓が頭の中で拍動する。
　…まただ。
　海面を走る津波のように。今度は廊下の床だけじゃなくて全身を、細胞の１つ１つまでを震わされたような気がする。
（――ああ！　もう！　告白とか初めてとか２人きりとか放課後とか何でそう、恥ずかしい単語ばかり！！）
　一瞬、そんな事を言う口を自分ので塞いでやろうかと思い、そこへ視線を向ければ、夕陽に赤く染め上げられた彼女の唇は、凄艶な魅惑を秘めた禁断の果実のようで。
　塞がれたのは私の思考回路。
　口元に手を当て俯いていた彼女がこっちを見上げる。そのまま柔らかく微笑まれれば、自分が起こそうとしてた行動の恥ずかしさとが相俟(あいま)って、今度は私が心まで赤く染め上げられる番だ。
　もし“赤面コンテスト”とかがあったら、今の私は絶対優勝できる自信がある。出たくもないけど。
「どうしたの？　アリサちゃん」
「――！！！」

　ドクンッ！！

　また衝撃が駆け抜けた。
　どうしてこんなにも。名前を呼ばれただけで全身を甘い痛みと安らぎが一緒になって駆け抜けるのだろうか。
　頭をもたげてくる良からぬ情動。それを必至に振り払う。
　ここはまだ学校の、教室を出てすぐの廊下だ。キスなんかしたら、誰に見られるか。
「大丈夫？　顔が赤いみたいだけど…」
　そう言って彼女が顔を近づけてくる。
（わっ！　バカッ！　やめなさいよっ！）
　心ではそう思っても縮まる距離に比例して、金縛りに遭ったように身動きが取れなくなっていく。それはまるでなのは達が使っていたバインドにでも囚われたように…。
　――コツン。と。
　ゼロ距離で私のオデコと彼女のオデコが触れ合った。
　目の前に、魅惑的な彼女の全てがそこにあって。
「…ウーン、ちょっと熱があるみたいだけど？　アリサちゃん」
「――！！！」

　ドクンッ！！

　あ、また…。
　本日、何度目かのすずかインパクト。
　ああ、でも。その正体は分かった気がする。
　目に映る彼女が鷲掴みにするのは私の心臓。そしてその声は。
　頭、というか理性そのものを揺さぶるのだ。多分、心の奥深く、最も柔らかい場所を。
　それはまるで口の中に放り込んだチョコレートが溶けるように、甘く甘く理性を浸食していく。
　何も答えない私を心配してくれてるのだろうけど。
　その距離は反則よ、すずか。
「…ホントに大丈夫？　アリサちゃん？」

　ドクンッ！！

　再び身体を駆け抜けた衝撃を意識してみる。
　インパクトの瞬間からそれは何度も何度も私の中でリフレインする。教会で聴く賛美歌の豊潤な響きに似て、長くいつまでも私の中で響いているから、次の衝撃がそれに上乗せされ倍加する破壊力。
「アリサちゃん？」

　ドクンッ！！

「――！！！」
（ほらね。もう……）
　これ以上、理性が形を留めている事は不可能、だった。
「……すずかが悪いのよ？」
「え？」
　そっと彼女の頬に手を添える。
　――それは私なりのキスをする時の合図。
「……………………共犯だね」
「ホント、悪いお姫様ね」
「うん。
　…私は王子様に心を盗まれて駆け落ち…」
「だまりなさい」
　私は優しく言い放ち、すずかの唇を自分のそれで塞いだ。
　周囲の空気が凍り付いた気がしたけれど、今の私にはそんな事は関係ない。
　ココロとカラダ、私の全部を使って感じる感触が全て。
　軽く触れるだけの赤い果実。
　温かくて、苦しかった鼓動を甘い痛みへ転換するには充分。理性は崩れたままなのに、頭の中はやけに静かになった。
　唇を離す事がこんなにも心細いものだと初めて思い知らされる。
「…………」
「…しちゃったね」
　可愛く微笑む彼女の表情は、どう見ても確信犯にしか思えない。
　けど夕陽に照らされたその瞳を見ていると、そんな可愛らしい疑問は全て拭い去られてしまう。
　沈み行く夕陽の、トワイライトの輝き。彼女の胸元でそれを照り返す月と十字架のシルバーアクセサリー。
「本当に悪いお姫様ね」
　彼女は一瞬の間の後、可愛らしく小首を傾げて。
「それでは。そんなお姫様をたぶらかした悪い王子様。次はどちらへ？」
　そう言って彼女はパーティーの時に見せたような、惚れ惚れするほどの優雅な仕草で、ダンスに誘う真似をする。
（……それはちょっとさすがに）
　ただもう公然とキスをしてしまった以上、後には退けない。と言うよりこの時私は理性を教室に忘れてきていたのだろう。
「いずこなりと。貴女と共に…」
　お姫様の手を取り、優しく握り合い、悠々と、その場を後にする。
　周囲の固まってしまった視線をそしらぬ顔で受け流し。多分、普段の私のキャラクターからは想像できないであろう紳士的な態度を振りまき、下駄箱へと続く廊下を急ぐ。
（全く。これじゃ宝塚に憧れるただのバカップルよ）
　と自分に毒突きながら、頭を掠めたピンク色の妄想を必至に追い払っていた。
（バカバカ！　何ですずかとのラブシーンなんて！　あれは舞台の上の話しでしょ！）
　その妄想の威力は凄まじく、家へと向かう車内で、彼女の方を一度も見られなかったのは言うまでもない。

　結局、その放課後は私の部屋でゆったりと彼女が淹れてくれた紅茶を楽しんだだけで終わった。
（私の意気地無し。もうちょっと進展させたら良かったな…）

　――なお後日談として、その“アリすず宝塚インパクト（はやて談）”が学校中に衝撃を与え、女の子同士のカップルが増えた事、アリサとすずかの２人は当分の間、はやてにからかわれ続けた事をここに書き添えておこう。