唇までの距離 ： Kiss is Out of The Blue

「ア…、ヤ…、フェイトちゃん、ダメ！」
　リビングに響く、栗色の髪の少女が零す短い悲鳴。
「……なのは、こっちだと弱いんだね…それならもっと…」
　他方、金髪をツインテールにまとめた少女の声が嬉しそうな呟きを漏らす。２人の少女の声が織りなし奏でるハーモニー。
　太陽が街のビルの影を長くさせる頃。
　リビングにいる少女達の影も同じように伸び、揺れ動く度にそれが重なる。
「ヤ、えと、そっち後ろは…」
　ゲストとしてここを訪れている高町なのはは、普段とは違った弱々しい声を上げている。
「ダメ。なのははいつも手加減してくれないでしょ？」
　ここに住まうフェイト・テスタロッサ・ハラオウンはいつになく優しい口調でなのはを諭す。まるで彼女の母親か姉であるかのように。
　なのはのなすがままだったフェイトが一転、攻めに回ると、ここぞとばかり彼女の弱点を突いていく。
「ほら、ココ。弱いんでしょ？　なのは」
「待って、ちょ、タイム…」
　フェイトの一方的な攻めになのはの声のトーンが上擦る。
「このまま一気に…」
　フェイトがついに最後のひねりを加えた。
「ア、ア――…」
「ウン！」
　なのはは観念して、とうとう身体をリビングの床へ預けた。
　直後、
　
『YOU WINNER!!』
　
　と言う無機質な音声がリビングに響き渡る。
　フェイトがＴＶ画面に向かって小さくガッツポーズを作っていた。
　
　授業が終わった放課後――――。
　今日はなのはがフェイト宅（正確にはハラオウン家）にお邪魔していた。２人きりのリビングで、クロノ推奨の格闘ゲームに興じている。
　いつも一緒のアリサやすずかは習い事。はやては守護騎士達と共に管理局へ。
　この家の家主であるリンディを始めとしたフェイト以外の家族は仕事で外出中。アルフは数分前に散歩へ出かけていった。
「負けた――……！」
　なのははゲーム機のコントローラーを握ったまま、天井に向かって情けない声を上げた。
「フフ。なのはに勝った」
　フェイトも同じようにコントローラーを握ったまま、しかしこちらは微笑みを浮かべている。
　彼女の視線が向かう先は傍らの少女。ゲームに勝った嬉しさに加えて彼女の仕草がどうにも可愛くて仕方がないと言った表情だ。
「んも―、フェイトちゃん、格闘ゲームだと容赦ないんだもん」
　なのはは少し拗ねたように、空中へ向けて言葉を放つ。顔に一杯の不満を浮かべて。
　けれど「フェイトちゃんならしょうがないか」と言うニュアンスをセリフの端に滲ませているのは、２人が共に過ごしてきた時間の長さを物語っているようだ。
「そう言うなのはだって、シューティングとかテニスだと容赦ないでしょ？」
　相変わらず微笑みを崩さないフェイト。拗ねるなのはも可愛いと思っているのだろう。落ち着いて穏やかに発する声の響きはいつも以上に柔らかい。
　お兄ちゃんや母さんには悪いけれど、アルフ以外で一緒に居て一番落ち着けるのはなのはなんだとフェイトは思う。
　彼女の前では自然体で居られる自分。胸中に沸き上がる温かくて、ちょっぴり恋のトキメキにも似た思いを噛みしめる。まだ恋をした事はないけれど。
　改めて実感できる自分の幸福を、フェイトは心の柔らかい場所にそっと仕舞った。
「む―…。それじゃ今度はテニスで勝負だよ！」
　そう言ってなのはは勢いよく起き上がり、いそいそとゲーム機へ向かう。格闘ゲームのディスクを取り出し、テニスゲームのディスクをセットする。こちらもクロノ推奨のソフト。反射速度の向上と対応能力の幅を広げるために最適だというのがその理由だ。
「ん」
　ゲーム機が動き出した事を確認。なのははまたいそいそとフェイトの隣へ戻り、クッションの上へちょこんと腰を下ろした。
（今度は負けないんだから……
なのはの瞳がさっきよりも真剣にＴＶ画面を見つめる。
　その様をフェイトは横目でチラリと盗み見て、苦笑する。
（本当に負けず嫌いなんだから……
そう思ってもフェイトは決して手を抜いたりはしない。それが２人の絆。
　ゲームが起動するまでの間、手持ち無沙汰になったフェイトは目の前のトレイからスティック菓子を取り、口元へ運ぶ。
　他にもトレイの上には量こそ少ないが、包装袋に包まれた色取り取りのお菓子が載っている。彼女たちにとってはお決まりのスタイルだ。
　更に２人の前に置かれているのはお揃いの白磁のティーカップとソーサー。同じ物は高町家の食器棚にも常備されていた。
　とフェイトの手と入れ違いに、なのはの手がトレイの同じ所へ伸びる。
「あ…」
「あれ…」
　お目当ての包装袋は既に空だった。ちょっぴり残念そうにそれを撫でるなのは。包装袋にデザインされたスティック菓子の商品キャラクターが歪む。
「あ、ゴメン。なのはも食べたかった？」
　フェイトが手にしたそれを咥える寸前でなのはに問い掛ける。
「あ、うん。いいよ、フェイトちゃんが食べちゃって、私は…」
　そう言って彼女はトレイへ視線を戻す。
　その上にはまだ他のお菓子が載っていたから、なのははそっちを選ぶのだろうと思いちょっぴり罪悪感を持ちながらも、フェイトはそれを口に運ぶ。
　その時、
「でもやっぱりそれが良いな。こっちからもらうね」
　言うが早いか、なのははフェイトがそのセリフの意味を理解するよりも早く、彼女が口に咥えていたスティック菓子を反対側から咥えた。
　急接近する２人の少女の顔。
　突然すぎる展開はフェイトを緊張させ、固まらせてしまった。
　急激に赤くなる頬。上昇する脈拍と体温。
　目の前になのはの顔がある！　しかも…。
　フェイトが顔を赤くしている間に、なのははウサギのように口を動かしてどんどん顔を近づけてくる。
　自分の真っ赤な顔に当てられたのか、近づけば近づくほどなのはの顔も紅葉を散らしたように染め上がっていく。
　ほんの数秒なのに、もっと、もっと長く感じられた時間。
（このままだとキ…）
「ご馳走さま！」
　お互いの吐息が感じられる距離でなのははそれを噛み砕き、顔を離してしまった。
（……えっと…、その…）
　トマトのように顔を真っ赤にしたフェイト。状況が飲み込めず、惚けたまま見つめている。目の前で嬉しそうにスティック菓子の味を堪能しているなのはの顔を。
　心なしかなのはの表情は照れ隠しで、わざと大げさに喜んでいるように見えるけど…………。
　甘い香りはチョコレートの星だけだろうか。
　既にゲームが起動しデモプレイは始まったが、フェイトの耳にはその音すら聞こえていないようだ。
「…？　フェイトちゃん？」
　スティック菓子の残り半分を咥えたまま微動だにしないフェイト。なのはが不思議そうに覗き込む。けれど返事はない。
「おーい、フェイトちゃーん」
「あ！　えっと、ゴメンなの…」
　二度の呼びかけで、フェイトはようやっと我に返ったようだ。
　だがなぜか顔を俯かせ、指で唇をなぞっている。
「？」
　なのはは変わらず不思議そうにフェイトの仕草を見つめている。
　彼女がその名前を口にしようとしただけで、心臓が飛び跳ねた事をなのはは知る由もなく。
　数秒の間があり。
「……ちょっと待っててね」
　ようやく気持ちの整理が着いたフェイトは一言だけそう言い残しキッチンへ向かった。
　なのははその後ろ姿を見守る。
　悔しさのせいで少し戯(おど)けたのが悪かったのだろうか。立ち上がったときのフェイトの顔には妙な迫力があった。
　少し不安に駆られたなのはだったが、その心配は杞憂に終わる。リビングに戻ってきたフェイトがさっきの物と同じ種類のスティック菓子を10箱も抱えていたから。
「どうしたの！？　それ！」
「リンディ母さんの買い置き。母さんも好きなんだこれ」
　言いながらそれを２人のクッションの間に並べた。
「でもそれじゃ勝手に…」
「大丈夫。私も好きだし、なのはも好きだって言ったらきっと母さん、喜んでまた一杯買ってくるよ」
「そうなの？」
　そう言われてもやっぱり少し悪い気がするなのは。
「それで……」
　なのはが遠慮の言葉を口にするよりも早く、フェイトが切り出した。
「今からやるゲームのご褒美にしようと思うんだ」
「…え？　これ全部？」
「うん……」
　フェイトの言葉を聞いてなのはの顔がパッと明るくなる。リンディへの遠慮の気持ちはどこかへ吹っ飛んでしまった。
　甘い物好きな上にお年頃の少女にとってこれほど魅力的な提案はないだろう。
「勝った方が独り占めできるの」
　まるで小さな子供のように喜ぶなのはの表情をフェイトが嬉しそうに見つめる。
「それで負けた方は……。
　食べさせてあげなきゃいけないってどう？」
「うん！　ＯＫ！ ＯＫ！　負けないよ！」
　フェイトの条件など半分上の空。なのはは目の前に並べられたお菓子に気をよくしてすっかりやる気満々だった。
　今からやるゲームはテニス。勝率はなのはの方が上。勝つ自信はあっても負ける可能性はゼロに近い。
「お手柔らかに……」
　なのはの自信たっぷりの笑顔にフェイトも微笑みで答える。
「早くやろ！」
　なのはがクッションをポンポンと叩き、座るよう促す。
「じゃぁ……」
　腰を静かに下ろし、フェイトは期待に満ちた表情でコントローラーを握った。
　勝っても負けても…………。
　フェイトはゲームが始まる前にもう一度、指を唇へ添えた。