初めての日 ： Affectionate Perfume

「お、お邪魔します……」
　金色の長い髪の少女が発した言葉の語尾はほんの少し震えていた。頭を下げる動作もどこかぎこちなく。
「そんな緊張しなくてもいいよ、フェイトちゃん」
　ピョコンと上下するツーテール。答えた栗色の髪の少女の声はどこまでも優しい。
　今日は金髪の少女、フェイト・テスタロッサが、友人である栗髪の少女、高町なのはの自宅を初めて訪れたのだ。
　普段は「見てるこっちが恥ずかしくなる」と２人の共通の友人、アリサ・バニングスが評するくらいの“仲良しさん”だが、フェイトにとって憧れである高町家への初訪問となると話しは別。そもそも緊張するなという方が無理なのだ。
　またフェイトの態度はその真面目な性格に寄る所も大きいのだろう。彼女がなのはを想う気持ちもそれに拍車を掛けている。なのはがただの友人なら、そこまで緊張する事もなかったはず。
　なのははぎこちない動きのフェイトに苦笑しつつ、彼女を促し自室へと案内する。
「ゴメンね。今日は皆、こっちには居ないんだ」
　“こっち”とはなのはの自宅の事である。逆に“あっち”と言えば、喫茶『翠屋』の事を差す。
「ううん。お構いなく」
　フェイトは微笑みを浮かべながら、なぜなのはが謝ったのか、考えてみる。
　むしろこの家に二人っきりである事を嬉しがってくれた方が、自分にとっても嬉しい…って何を考えているんだろう、私は。
　金髪の少女は軽く頭を振って、脳裏を掠めた甘い期待を振り払う。
　今日は遊びに来た訳じゃないのに。
　アリサやすずかを思うのとも違う、アルフやハラオウン家の人々を思うのとも違う気持ちが、ずっと心の中をモヤモヤと漂っている。
「フェイトちゃん？」
　見上げればなのはが不思議そうな表情でこちらを見ていた。
「あ、ゴメン。何でもないんだ」
「フフ。ヘンなフェイトちゃん」
　彼女は楽しげに微笑んだだけで、階段を上っていく。なのはの何気ないそんな気遣いがフェイトには嬉しい。
　ふと彼女は思い至る。
　さっき、なのはが謝ったのもきっと同じように彼女の優しさから。
　自分が高町家の家族に憧れを抱いてたことをなのはは覚えていてくれて。高町家の皆に会えることを期待していた自分の気持ちを察して。だから私に“ゴメンね”って…。
　なのはのそんな優しさをフェイトは改めて噛みしめる。
　
「ハイ、ここが私のお部屋です♪」
　そう言ってなのはが扉を開けるとフェイトの瞳が喜びに染まる。
「わぁ……」
　ここがなのはの部屋…。
　ビデオメールで見ていた空間が今、目の前にある。不思議な感慨深さも手伝ってフェイトはなのはの部屋をじっくりと見回した。
　やっぱりビデオメールで見るのと、実際に部屋に入って見るのとでは大きく印象が違う。彼女の胸は高鳴っていた。
「…そんなに驚く物でもないと思うけど…」
　先日、初めてハラオウン家を訪れた時の事を棚に上げ、なのはは苦笑混じりに呟いた。
「それじゃちょっと待ててね。お菓子とか飲み物とか持ってくるから」
　それだけ言い残し、彼女はさっさと台所へ降りて行ってしまう。
「あ…」
　フェイトが後ろを振り返った時には既に遅く。
　独り部屋に残されたフェイトは手持ち無沙汰になり、キョロキョロと改めて室内を見回した。
　窓際のぬいぐるみ――。
　絨毯やベッドの上へ無造作に置かれたクッション――。
　机の上に広げられたままのノートと、見覚えのある塾の参考書――。
　すぐ隣へ目を移せばユーノが使っていたバスケットが今もそのまま。ちょっぴり彼には羨ましさを覚える。
　その傍らにはフェイトが送った写真が額に収まり、ビデオメールのディスクと一緒に置かれている。
　数ヶ月前の自分に再会する気恥ずかしさと、なのはとの間に紡がれた想いの証しが胸の奥を暖かくする。何だかちょっぴりくすぐったくもあるけれど。
　視線を転ずればベッドの横にあるスタンド、その脇には小さく畳まれた白いハンカチが目に入る。それが待機状態(スタンバイモード)のレイジングハートを置く場所だとフェイトにはすぐ分かった。
　
　（……バルディッシュ）
　今は修理中の愛杖の事を思い出す。
　見つめる左手に今も微かに残る違和感。労るようにキュッと右手を添え握りしめる。
　早く元気になって欲しい。
　そう、なのはと共にもう一度戦うために……。
　フェイトは瞳を閉じ、決意を新たにした。
　
　目を開けると、ふとベッドの端に置かれたパジャマが目に付いた。
　脱ぎ散らかしたままのそれが如何にもなのはらしく、フェイトは苦笑する。
　（なのはったら…）
　ベッドの上へちょこんと腰を下ろし、そのパジャマを手に取る。
　（せめて畳んでおかないと……）
　何気なくパジャマを取り上げた時、フワリと甘い匂いが薫った。
　フェイトがよく知っている、なのはの薫り。
　そうだ。ここはなのはの部屋なのだ。
　意識の隅に追いやっていた事実が頭をもたげてくる。それに合わせてフェイトの顔がまるで温度計の目盛りのように赤く染まっていく。
　ここでなのはは勉強をして、着替えをして、夜になると眠って、
　今、自分の手の中にあるのは、そのなのはが着ていた……。
　彼女は考える間もなく、吸い寄せられるようにしてパジャマへ顔を埋めた。
　それをフィルターにして肺一杯に空気を吸い込む。
　鼻腔を満たす甘い薫り。なのはの薫り。
　（なのは……）
　心なしか、その温もりも感じられ。フェイトはそれにすっかり夢中になって、何度も深呼吸を繰り返す。
　何とも言えない甘美で幸せな時間。
　半年間の期間を経て、新しい戦いに巻き込まれながらも、ようやく訪れた一緒に過ごせる毎日。
　今、この腕の中にあるモノは本物だ。なのはの薫り。なのはの温もり。
　
　――半年前、私が勝手に思い描いていた幸せじゃなくて。
　
　一瞬、フェイトの胸中をかつて母と呼んだ女性の面影が過ぎる。
　
　――確かに今、私はここにいる。
　
　なのはと再会できて。
　家族と呼べそうな人たちと一緒に暮らせて。
　アリサやすずか、クラスの子たちとも友達になれて。
　
　――絶対大丈夫。私はここに生きている。
　
　フェイトは腕の中の幸せの薫りをもう一度、胸一杯に吸い込む。
　
　だが彼女はそれに夢中になるあまり、自分の今の行動が他人から見るとどう言った構図になるのか、その状況をすっかり失念していた。
　なのはがお盆を抱え、部屋の入口に立っている事も気が付かないほどに。
「……フェイトちゃん？」
「ひゃいっ！！！」
　いきなり声を掛けられたフェイトは上擦った声を上げる。一瞬、幻聴であって欲しいと願うも、自分がなのはの声を聞き違えるはずはない。
　恐る恐る振り返ると、呆れたような、驚いたような様子で、彼女がこちらを見ている。パジャマの持ち主であるなのはが。
　その両手には紅茶と翠屋特製と思しきケーキが載ったお盆を抱え、
「なななななのはっ！？」
　フェイトはしどろもどろになって、手にしていたなのはのパジャマを本能的に背後へ隠した。
　現実の重みがフェイトの理性にのし掛かる。自分の今の態勢を客観的に見た場合にどう思われるか。そしてなのはの視線の意味を考慮すると状況は絶望的だ。
　見られた！　見られてしまった！
　フェイトの顔は赤くなったり青くなったりしながら必至に釈明を試みる。
「これは…えっと…その…」
「えーと…、それはその…、不潔だよ？」
　（ガ―――ン！！！）
　フェイトの表情が驚きに彩られたまま固まってしまう。
　（フケツ……フケツ……フケツ……）
　なのはに突きつけられた言葉が何度もリフレインしている。
　フケツだと言われた。
　軽蔑された。
　嫌われた。
　なのはに。
　……そうだよね。
　……こんなヘンな女の子、なのはは嫌いだよね。
　驚きで見開かれていたフェイトの表情がみるみる曇っていく。
「あ！　違うよ！　フェイトちゃんが不潔って意味じゃないよ！」
　勘違いさせてしまったと思ったのか、今度はなのはが慌ててフェイトに釈明する。
「その私のパジャマ。昨日、かなり寝汗をかいちゃって。朝脱いでそのままだから。その臭いとか…。
　汚いんじゃないかなぁって…」
「ううんっ！　なのはの汗なら全然汚くなんか…！」
　なのはが言い終えるより早く、フェイトが早口で言葉を重ねる。俯いていた顔はどこへやら。
「私！　なのはの汗だったら…」
　パジャマを抱えたまま迫ってくるフェイト。思わずたじろぐなのは。
「フェ、フェイトちゃん！　ちょっと待って！」
　フェイトは何とかなのはの誤解を解こうとしているのだが。如何せん、小さなパニック状態に陥った今は完全に泥沼へはまってしまっている。何を言おうにも行動は空回り。
「ダイジョーブだから。一端落ち着こ、ね。お話しちゃんと聞くから」
　５分ほど悶着は続き、なのはが持ってきた紅茶を零しそうになったことでそれはようやく終息を見せたのだった。
　
「そっか…。
　それで不安になっちゃったんだね。にゃはは」
「ごめんなさい」
　平謝りするフェイト。
　クッションへ預けたお尻がわずかに浮き上がる。
　口に含んだレモンティーの酸味が茹だった頭をスッキリさせてくれる。
「ううん、いいよ。私も何となく分かるから」
　紅茶を一口。不思議そうな顔で見上げてくるフェイトに、なのははゆっくり言葉を続ける。
　夕陽の光りに縁取られた姿が、無防備なその表情があまりにキレイだったから。
　自分の胸の鼓動を押さえるよう、一言一言をゆっくりと。
「私も、フェイトちゃんと会えない間は、寂しかったよ。
　ビデオメールで顔は見られても、やっぱり直接会ってお話ししたいし。
　それに……」
　カップをソーサーに置き、お盆へ戻す。
「こうして直接、触りたいって思うもん。ずっと会えないと」
　そう言ってフェイトの髪を優しく撫でる。膝立ちのような格好で、交換したリボンに沿うようにして。
　初めこそビックリしていたフェイトだったが、そのままなのはの指先を受け入れている。
　残り香じゃない、確かに感じるなのはの匂い。
　仄かな甘さに加え、ポカポカとしたお日様に似た薫りがするのだ。
　目を閉じてされるがまま、気持ちよさそうなフェイトの表情。
　なのはが知っているフェイトの一番穏やかな表情。
　自分の手をフェイトの頬に触れされると、彼女の両眼が静かに開かれた。
　夕陽が強くなったのかと思えるほど、頬を赤くして。
「……今度は私の番……」
「え……？」
　フェイトはお盆ごとお菓子や紅茶を脇へ避けると、緩慢な動きで立ち上がった。
　一歩、歩み寄る。
　なのははフェイトの優しい瞳に気圧されるようにして、再びベッドの端へ腰を下ろした。
　フェイトが手を伸ばす。
　栗色の髪を束ねた黒いリボンを確かめる。
　指先から流れ込む友情の証しの手触り。柔らかいなのはの髪。
　最初はビックリしていたなのはも、やがてフェイトの指が奏でる圧力を楽しむように目を閉じた。
　どこか必至さを感じさせる指遣い。
　金髪の少女が積極的なのは、寂しさと不安の裏返し――。
「大丈夫だよ。フェイトちゃん」
　フェイトの指の動きに合わせ、なのはが静かに語り出した。
「絶対、大丈夫。
　私とフェイトちゃんは。そうやって結ばれてるから。
　だから……」
　なのはがフェイトの手を取り、自らの両手で包み込んだ。
　フェイトを見上げ、真っ直ぐ目線を結ぶ。
「私はいつもフェイトちゃんを思ってる。
　いつもフェイトちゃんの味方だよ」
　一瞬の驚きと、胸の内をどこまでも埋め尽くしていく温かい気持ち。
　フェイトは改めて思う。
　本当に。この少女はどこまで優しく、そして強いのだろう。
　不安の忍び寄っていたフェイトの心が、雲間から差す込む光に照らされたように晴れていく。
　膝立ちになり、なのはと真っ直ぐ目線を合わせる。
　
　右頬を照らされたなのはの表情は、安らかな微笑みと慈愛に満ちて。
　――絶対、大丈夫。確信を持って言える。
　――私が貴女を信じているのと同じくらい、貴女も私を信じてくれているから。
　――それを知っているから。
　――私はずっと貴女の味方です。
　
　左頬を照らされたフェイトの表情は、穏やかな決意と優しさに溢れて。
　――なのはを守り、支える。私はずっとそうしたい。
　――こんなにも大事に思える人は、なのはが初めてだから。
　――だからキミの笑顔を守るのはいつも私でありたい。
　――友達と強さと優しさを教えてくれたキミだから。
　
「私もいつも、なのはの味方だよ」
　見つめ合う視線と繋がれた手の間で交わされたのは確かな信頼だった。
　
　やがて恥ずかしくなったのか、夕焼けよりも赤い顔が不意に天井を見上げた。
「あ、でも……」
「え？」
　なのはが思い出したように、口を開いた。
「私の匂いを嗅ぎたい時には言ってね？」
　悪戯な笑顔を浮かべる彼女。
「お、お願い。それは忘れて……」
　フェイトも自分の痴態を思い出し、苦笑する。
　見つめ合うよりもむしろそっちの方が、彼女には恥ずかしかったりする。
「にゃははは……。
　それじゃ、今日の本題。フェイトちゃんのお話って？」
　なのはに促され、フェイトは繋がれた手を解き再びクッションへ腰を下ろす。
　それから、しばし逡巡し絞り出すように切り出した。
「ねぇ、なのははあの人たちのこと、どう思う？」
「あの人達って、闇の書の？」
「うん。闇の書の守護騎士達のこと――………」
　
　そして“闇の書”を巡る壮絶な戦いが幕を開けるのだった。