素直とわがままの間隙を抜けて

　「剣心ーっ！　……あれ？」
　 　勢いよくブリッジに飛び込んだ薫だったが、そこに探している人物は見当たらなかった。
　「剣心なら居ねぇよ、薫」
　答えを返したのは、自分の席でコンソールを操作している弥彦である。
　「弥彦！ 　私を呼ぶ時は艦長と呼ぶように言ってあるでしょ？」
　「うるせぇな。それならお前もちゃんと剣心を測的長って呼べよ」
　「何よ、全く口の減らない子ね」
　「それはお前譲りだ」
　薫と弥彦はいつものように言い争いを始めた。非常時ではないのでブリッジにほとんど人が居ない。よっていつも２人を止めてくれる剣心や左之助もここに居合わせてはいなかった。
　「別にいいでしょう！　緊急時じゃないんだから、名前で呼んでも！」
　「そりゃそうだ！　だったら俺にも強制するんじゃねぇ！」
　２人の言い争いがますます加熱するかと思われたその時。
　
　パンパンッ！！
　
　「ハイハイ。２人ともそこまで」
　手を打ち合わせる音の方へ、２人は一斉に振り返る。
　「操！？」
　「操ちゃん…」
　２人の間に割って入ったのは操であった。
　いつからそこに居たのか、操は他よりも一段高い位置から２人を見下ろしていた。
　「何だよ。偉そうに」
　「…………」
　薫も口には出さないが、不満な表情を浮かべる。
　（フゥ、２人とも子供ねぇ）
　自分の立ち位置も忘れて、１人悦に入っている。この辺りは如何にも操らしい。
　「いくら女の子とうまくいかないからって、八つ当たりは良くないよね、弥彦ちゃん？」
　「う、うるせー！　ちゃんて呼ぶな！」
　弥彦の焦り方から見て、操の指摘は間違いないようだ。
　「薫さんも、自分が言ってないんだから、人に強制しちゃダメだよ。緊急時以外はリラックスしなきゃ」
　「操ちゃんも弥彦と同じこと言うのね」
　弥彦だけでなく、操からも同じように言われては、さすがの薫も苦笑するしかなかった。
　「そう言えば剣心を知らない？　操ちゃん。さっきから探してるんだけど見当たらなくて…」
　「緋村？　緋村ならさっき展望室で見掛けたよ」
　それを聞いて薫の表情がパッと明るくなった。
　「本当？　ありがとう操ちゃん」
　お礼もそこそこに薫は駆け出した。
　「あ！　第６展望室だよ！　薫さん！」
　操のその声が薫に届いたかどうかは定かでない。
　
　緋村剣心は第６展望室に居た。
　物思いに耽りながら、明るく輝く木星の大赤斑を眺めている。この惑星の輝きは太陽光の反射だけでなく、自らの内部エネルギーによる光も含まれているため、かなり明るい。その明るさは単身痩躯な剣心のシルエットをより強調している。「太陽になり損ねた巨人」と呼ばれるこの惑星の光が、剣心の頬の十字傷を更に深く掘り下げていた。
　あの事件以来、彼はここへ訪れる度にこうして木星を眺めることを常としていた。その理由が何であるのか、本人の口から語られたことはない。
　「……巴…」
　剣心が静かに呟く。遙か昔を懐かし無用な表情で。
　「ハァ…、ハァ…」
　薫は息を切らしながら、第６展望室へ入ってきた。相当急いできたらしく、額には玉の汗が浮かんでいる。
　「剣心」
　返事がない。
　「剣心！」
　もう一度、先ほどよりも大きな声で呼んでみるが、やはり剣心は答えない。
　顔色をうかがおうとわずかに左へ寄った薫は、一瞬立ち止まってしまった。
　剣心がまたあの表情をしている。憂いを秘めた横顔と言えば聞こえが良いかもしれない。だが薫には剣心のあの表情がどこか、大きな悲しみを宿しているようで、好きではなかった。
　「剣心！　…………。もう…。
　緋村測的長っ！！！」
　「はっ！？　ハイ！」
　剣心はいきなり大声で呼ばれたので、きょーつけをしたまま固まってしまった。
　「ふぅー…。そんなに緊張しなくても良いわよ、剣心」
　半ば呆れたようにため息をつく薫。
　「ふぅー…。艦長でしたか…」
　こちらは安堵のため息である。
　「何よ。私じゃ何か不都合があった？」
　「イヤ、そういう意味では」
　「何かスッキリしないわねぇ…」
　「ははは…」
　乾いた笑い。悪態をつく薫に剣心はたじたじであった。
　「ところで艦長、何か用でも？」
　「もう！　用事があるからここまで走ってきたの」
　「それなら呼び出してくれれ…ば？」
　そう言って剣心は左手首の辺りをさすった。
　「おろ？」
　いつもそこにあるはずの感触が返ってこない。
　「これでしょ？」
　薫が差し出したのは剣心の通信用ブレスレットである。
　「おろ？　どうして艦長が？」
　剣心は自分のブレスレットを受け取りながら、不思議そうに薫の顔色をうかがった。
　「恵さんが渡してくれって。医務室に忘れていったんだって」
　「そうか、高荷医務長が。
　俺がお礼を言っていたと伝えて下さい、艦長」
　剣心が奇妙とも思えるほど優しい口調で言った言葉を薫は違う意味でとらえた。
　「何よ。そんなの自分で言ってくればいいでしょ。
　それにぃ、恵さんにはお礼を言って、私には何もないの？」
　薫の言葉に怒気が帯びる。
　「あ、イヤ、別にそういう…」
　ただならぬ気配から剣心はわずかにたじろいだ。
　「んもぅ剣心のバカ！」
　「イヤ、医務長にはいつもお世話になってるし…」
　「だからって目の前の私よりも、先に恵さんのことを言わないでよ！
　普通に考えたら失礼でしょ！」
　薫の剣幕に押されて、剣心の口調がしどろもどろになっていく。
　「だからその…」
　「大体剣心はねぇ、誰にでも優しすぎるの！！
　この間のことだって左之助を叱責しようとしたら止めたじゃない！！」
　「あの時は左之じゃなくて、艦の方に原因…」
　「そんなの、左之助が勝手に言ってるんでしょう！
　そうやってねぇ、誰の言葉でもヒョイヒョイ信じちゃうから誤解されちゃうのよ！」
　「は？　誰に何を？」
　「私に決まってるでしょ！！」
　「……」
　珍妙な面持ちで相手を見つける剣心。もはや頭に血の上った薫は自分が言っている台詞を理解していない。
　「何よ、その顔は？
　私はいつもあなたのことを想ってるのに、剣心はほとんど応えてくれないじゃない！」
　「ハァ……」
　剣心は大きくため息をついた。
　薫が怒っている原因は、剣心が考えていた“目前にいる相手よりも先に他の者へお礼を言った常識外れ”に対してではなく、単に“恵より自分に礼を言って欲しいわがまま”から来る物だった。
　言うなればただかまって欲しいだけ。
　「剣心！　聞いてるの？」
　「ああ、聞いてるよ、薫」
　彼女の名を呼ぶと剣心は素早く間近へ詰め寄った。
　「ちょっと、けん…」
　開きかけた薫の唇を、剣心は己の唇で塞いだ。
　「ん！？」
　最初は驚いて瞳を見開いていた薫は、やがてその両眼に映り込む木星の光に照らされた剣心の紅い顔を、そっとまぶたの奧にしまう。
　それから、２人には数十分とも思えた数秒を越えて、静かに唇を離した。
　「…………」
　「…………」
　しばしの間、俯いたまま互いの足元を見つめるだけの２人。
　剣心の頬は木星光の照り返しによる物とは思えないほど紅に染まり、行き場を失った手は、先ほど薫から渡されたブレスレットを弄っている。
　一方、薫の頬もまた剣心以上に紅い。口づけの最中に後ろへ組んでいた両手は前へ運ばれ、もじもじと弄り回している。
　「ごめんね…。その…、取り乱しちゃって…」
　歯痒い沈黙を先に破ったのは薫だった。
　剣心の大胆な行動が、逆に彼女の頭の中を冷静にさせた。
　「あのね。最近、剣心はずっと研究室にこもって仕事を続けてるでしょ。それが危険なことはわかってるの。それが大事な仕事だってことは。だけど、やっぱり恐いし、心配で…。
　それに毎回、仕事が終わる度に安全のためと言っても、恵さんの所へ検査に行くのもちょっと…」
　薫は俯いたまま、とつとつと自分の思いの丈を語っていく。
　それは不器用とも言える薫の純粋な気持ちと、剣心を独占したいと思う小さな欲望の告白であった。
　「仕方ないって思って割り切ろうと思っても全然うまくいかなくて。それでね…」
　薫のたどたどしい口調が彼女の胸内の混乱ぶりを如実に語っていた。同時に剣心へ気持ちを伝えようとする一生懸命さも表している。そんな気持ちと欲望の絡み合いから、薫自身の心がとても混乱していることは剣心でなくとも容易に想像できただろう。
　しかし、彼にとって薫の告白はとても嬉しいことだった。なぜなら剣心もまた薫と同じ感情を抱いていたからだ。
　「だから、あの…」
　「わかったよ、薫」
　剣心は柔らかい表情を浮かべ、薫の左肩に優しく右手を添える。
　「剣心？」
　「余計な思い患いをさせてすまない」
　「ウフッ…。
　んーん、私が自分勝手に思ってただけだから。
　でも、今度からもう少し気を遣ってくれる嬉しいな」
　それは薫なりの精一杯のわがままである。曲がりなりにも一戦艦を任される艦長であり、その艦が地球界共和政府直々の調査任務航海中とあっては、プライベートに割ける時間も限られている。この激務の中で、薫は互いを思い合うことに安らぎを見出そうとしているのかもしれない。
　彼女は口元に小さく笑みを作り、少し潤んだ瞳で剣心を見つめ、“お願い”した。ところがこれは剣心の男の本能に火をつけてしまう結果となる。
　「わかったよ。それじゃ…、今回のことを俺に償わさせてくれ」
　そう言うと薫を胸中へ抱き寄せ、己の腕(かいな)で包み込んだ。
　「剣心！？」
　力を入れすぎないようできる限り優しく薫を抱きしめる。剣術で鍛えているとは思えないほど華奢な体躯は薫が女であることを強く剣心に意識させた。それが彼の“男”を更に加速させる。
　剣心の意外な行動に驚いて、再びその顔を見つめた薫は剣心からの口づけを予想することが出来なかった。
　「ん…」
　瞳を閉じ恥じらいでいっぱいに染まった薫の顔を間近に見つめる剣心。恋しい少女が、自分の腕の中で口づけを受け入れてくれている。堪らない満足感と止まらない情欲が溢れてくる。剣心は今、本能的に薫の肌を求めていた。
　軽く口づけを交わした彼は一度わずかに唇を離し、位置を滑らせて薫の上唇を啄む。
　（ウソ！？　剣心からこんな…）
　「んん！！　……ふ！　んぅ……！！」
　薫を襲った初めてのディープキスは不思議と大きな違和感もなく、むしろその軟らかい感触の中にわずかな心地良ささえ感じられた。
　剣心は彼女の唇を２度、３度と啄んだ後、今度は舌を使い上下両方の唇を湿らせつつ、閉じられた口腔を幾度となくノックし、中へ侵入しようと試みる。
　「んんぅ……ふぅ…け、しん……。ぁむぅ……ん」
　次々と続く剣心の求愛が薫の頭脳から少しずつ正常な判断能力を削いでいく。
　ここで情欲に溺れまいと剣心の抱擁を振りほどきに掛かる薫だが、か細くもしっかりした確かな腕の力で抱きしめられているため振りほどくことが出来ない。しかも、ほんの少し口を開いてしまったため、剣心の舌の侵入を許してしまう。
　「！！！　ふ！！　く…ふぅん…んん……」
　初めて薫の口膣の温度を感じた剣心の舌は器用に動いて、彼女の白い前歯をなぞる。そうして、前歯の表と裏を交互に刺激した後、裏側の歯茎を念入りに舐め回した。時折頭の中に大きく響く陰湿な水音が、薫の理性を甘く侵食していく。
　（なんだか、頭の中が融けていくような感覚…）
　閉じた瞳の裏側を時折駆け抜ける疼きに似た感覚が女の本能を刺激してやまない。徐々に剣心の腕へ掛かる体重が増していることからも、薫の陶酔ぶりがうかがい知れる。
　やがて薫の舌が無意識のうちに剣心の舌の動きに合わせて、蠱惑的なダンスを踊り始める。この瞬間を見計らい、剣心は自分の舌と薫の舌をより一層密着させ、絡ませ、唾液を交換する。
　いつしか、２人の間から出づる音は周囲にも聞こえるほどになり、そこへ薫の荒い息遣いが卑猥なハーモニーを加える。
　「ん……は、んんん…ふ…」
　そして遂に剣心の舌は少女の舌を誘い出し、己の口内へ導いた。まるで別の生き物の様に巧妙な動きのそれは、薫の官能を刺激し薫自身へ自分を求めるよう助長する。
　彼女の秘めやかな舌先を誘導し口内を舐めさせようと、その部分を軽く甘噛みし新しい刺激を与える。
　「ふ、ふぅ、ん」
　白い喉の奥から鼻腔を通して漏れる薫の吐息は既に甘くとろけた物へ変わっていた。
　すっかり体の芯まで火照り、甘い誘惑を享受している薫にもまだ理性の欠片は残っていた。砕けそうになる腰を必至に支え、剣心が瞳で訴えている欲求に対抗しようとしている。
　剣心が薫へ更なる誘惑を掛けようとしたその時である。
　
　ビーッ！　ビーッ！　ビーッ！
　
　突然、剣心の左腕にはめられた通信用ブレスレットから呼び出し音が聞こえてきた。間髪を入れず剣心は受信確認のボタンを押す。“SOUND ONLY”の文字が現れ、ブレスレットの向こう側からノイズ混じりの若い男の声が聞こえる。
　「緋村測的長っ！！　すぐに全天球レーダー室へ来て下さいっ！！　例の小惑星らしき影が映りましたっ！！」
　男は慌てた様子で早口に剣心へ告げた。
　「…………。
　わかった。すぐに行くからこれまでの全計測データを用意しておいてくれ」
　「了解しました」
　通信を終えた所で、剣心は腕の中で息を荒げている少女に視線を落とす。
　「すまない。こればっかりは…」
　「わかってる。こればっかりは仕方ないもんね」
　頭では納得してるようだが、言葉には怒りと残念さの入り交じった心中が垣間見えた。
　「すぐに戻ってくるから待ってて欲しい」
　「長くは待っていないわよ」
　そう言って薫は剣心を突き放した。
　「いってらっしゃい」
　「ああ、行ってきます」
　どこか妻に送り出されるサラリーマンのような気分で剣心はその場を後にした。