姉弟 -キョウダイ- の刻印

その5 教子と秀一

 出発前、西の空はまだうっすらと色づいていた。
 再び自宅の門扉に手を掛ける頃にはすっかり色を失い、空は一面闇色に染め上げられていた。中天高くオリオンの三つ星が輝いている。
「ただいまー!」
 玄関の戸を引き、自慢の愛車とともに中へ入る。
 ウチの構造はちょっと変わっていて、玄関をはさみ家と物置兼ガレージがつながっている。玄関扉も今では珍しくなった引き戸。ハッキリ言ってダサイ。
 けど、今みたいに自転車を運び込むときや、両手が荷物でふさがっているときなどは結構便利だ。引き戸は開けっ放しが利くし、雨の日は濡れずに車の乗り降りができる。
 誰が考えたか知らないが、“実用性”という点では、良くできた家だなぁと思う。
 愛車のストライドをいつもの場所に置き、軽く点検してから家へ上がった。
 ニオイにつられて台所へ行くと、出かける前と変わらない格好で母さんが夕食の献立を仕上げていた。
「ただいま」
「お帰りなさい。ずいぶん早かったわね」
 料理の手を止めず、母の声だけが返ってくる。
「うん。すぐそこのコンビニで良い物が見つかったからね」
「良かった。あんまり遅いとあの子、もっと落ち込んじゃうだろうから」
 母の安堵のため息。ちょっと過保護すぎやしないだろうか。
「母さん、甘やかしすぎだよ。秀一のこと。
 たかがバレンタインくらいで大げさなんだから」
 そう、彼女(シューが勝手に思いこんでただけかもしんないけど)からチョコが貰えなかったぐらいで。あんなにふさぎ込むこと無いでしょうに。
「アンタと違って、あの子はナイーブなんだから。それくらい察してやんなさい!」
「ハイハイ」
 どうもウチの母さん父さんはシューを甘やかしすぎる。長女の私なんて放りっぱなしだもんなぁ。
「それ渡したら秀ちゃんに降りてくるように言ってね。
 今夜はあの子の好きな鳥肉のソテーにしたから」
 リビングの食卓を見ると、おいしそうな湯気をまとった料理が並べられている。
 母さんは今時珍しく自分で料理をする。時々だけど。
 私の学校の隣りのクラスにいる、えーと…、なんて言ったかな。リートじゃなくて、リナイじゃなくて。
 ともかくリ何とかって男子の母親に教わっているらしい。
 きっかけは保護者の集会。そのときの話題がたまたま家庭内の食事についてで、その男子の母親が簡単な講演をしたと言っていた。
 影響されてからはウチに見知らぬ調理器具が増え、週に一度は母さんの手料理が食卓に上るようになった。
 私としてはなかなか味が良いから毎日でも作ってほしいんだけど。
 今夜のメニューに後ろ髪を引かれながら、私は2階の自分の部屋へと向かった。

 姿見の前で最終チェック。普段、家の中でほとんど着ないちょっとおしゃれな服。ハニーブラウンのカーディガンとお揃いのインナー、足首に届くほど長い紺のプリーツスカート。
 鏡の向こうのすました自分と目線を合わせる。
「はぁ。何やってんだろ」
 たかが弟を呼びに行くだけなのに、なぜここまでキメる必要があるのか? 別に普段の部屋着でいいじゃないかとも思う。
 けどね、せっかく彼女の代わりにこの優しいお姉様がチョコを渡しに行くのなら、それなりのお膳立てってもんが大事でしょ。
 これで株上げとけば、義理とはいえホワイトデーが期待できるかもしれないし。
「ほんと。我ながらしたたかと言うか…」
 思わず苦笑してしまう。鏡の中の私はため息をつきたそうな表情で笑い返した。
「キョーコ、行くわよ」
 自分の中で気持ちを切り替え、戦闘モードに入る。どうせやるなら徹底抗戦。貰える物は貰っとかなくちゃねぇ。ほんと、私ってしたたか。
 向かいにある弟の部屋のドアを軽くノックする。
 少し待っても返事はない。
 もう一度乾いた響きを重ねる。
「シュー。母さんが晩ご飯だから降りてきなさいって」
 呼びかけてみたが、相変わらず返事はない。
 自分の声がやけに大きく廊下に響き渡り、ちょっとむなしくなった。
 ここは強行突破しかないわね。
「シュー、どうしたの? 開けるわよ、返事しないなら」
 と言いつつ、すでにノブは回ってたりして。よし、鍵は掛けてないようね。これで鍵が掛かってたら、開けさせるだけでも一苦労だもん。
「シュー?」
 3度目のノック。最後通告。けれど反応無し。
「開けるわよ。いいのね、開けちゃったわよ」
 ゆっくりとドアを開けて中の様子を観察する。電気はついていないけど外から差し込む光で弟の部屋の中は手に取るように分かる。
 男の子の部屋ってどうしてこう散らかってるの? できることならその過程を見学したいと思えるほど、部屋の中はゴミのような物があちこちに積み上がってる。
 ちゃんと積み上げてある時点でゴミじゃないのか。
 第一関門であったドアを難なくクリアできた安心感から一気に目標との距離を詰める。
 弟はベッドの前に座り込み、膝を抱えていた。
 おーおー、いっちょ前に哀愁なんか漂わせちゃって。中等部らしくないわねぇ。
「シュー。晩ご飯だって。下りといで」
 優しく声を掛けても何の反応も示さない。
 不思議に思って覗き込んでみたけど、寝てるってわけじゃないみたい。と言うよりも、瞳がなんか危ない。
「シュー、聞いてるー? ご飯だよー! アンタの好きなトリだよー!」
 口元に両手を当てた上、シューの耳元で呼びかけてもやっぱり反応はない。
 なーんかこういうのが一番ムカつくんですけど。目の前で無視されるのが。
 放っておいてくれったって絶対無理、よけい心配になっちゃうし。居てもたってもいられなくなって声を掛けちゃうこっちの心境も理解しなさいよ。
 って言っても多分無理よね。自分の心で手一杯だから人の気持ちを考える余裕はないだろうし。そこが子供っぽくて良いんだけど。
 でもやっぱりちょっちムカついた。
「何があったか母さんから聞いたよ」
 一呼吸おいてシューの様子を見る。こんなこと言っちゃう私もまだシューと同じか。
「チョコ、貰えなかったんだって? 本命のコから」
「…………」
 お。反応アリ。無言でにらみ返してきた。
 そんな「お前に何が分かるんだよ」光線出されたってひるむわけ無いでしょ。
「情けないわねぇ」
「……うるさい」
「はい?」
「うるさい! キョーコに何が分かるんだよ」
 この、中二のクセに、呼び捨てぇ!?
 ってどうどう。ここで相手に合わせちゃ私の負けだわ。
「分かるわけ無いでしょ? 私はそのコに会ったことはないし、そのコがシューのことどう思ってるかなんて知るわけ無いもの」
「だったら口出し…」
「口出しするわよ。私はシューの姉さんだもの。姉として弟のそんな情けない格好は許せないの。それにね、私の知り合いで今のシューみたいな男の子を好きになる子はいないのよ」
 そういうのを見て楽しむ子は居そうだけど。
「…………」
 フッ。さすがに黙り込んだわねぇ。さ、次はどう来る?
「………グス」
 あらら、今度は泣き落とし? でも…、
「そう。どんな状況だったか知らないけど、そうやって素直に悔し涙見せてる方がよっぽど格好良いぞ。さっきみたいに意地張ってるよりもね」
 自分で言っておいてなんだけど、ホントこうして素直に感情を出してくれた方が安心できるし、可愛いと思う。さっきみたいに黙りこくってムッツリしてるより、ストレスも溜まらないしよっぽど良いと思うわけ。私はね。
「……ク……、ズズ…」
 涙を隠そうと必至に膝の間に顔を埋めている様子がまたなんだか可愛い。
「あんまり泣かれると気分悪いわねぇ、私が泣かしたみたいで」
 シューの頭に右手を置いて優しく撫でてやる。
「ほら、男の子。いつまでも泣いてないで。そんなに悔しかったらそのコからチョコが貰えるようになるまで頑張れ。
 私はいつでもシューの味方だから」
 うわぁ、雰囲気に流されたとはいえ、無茶苦茶恥ずかしいことを言ってる気がする。今のって告白を通り越してプロポーズにも使えそうなセリフ…。
 ううん、私にそんなケはないはず。カナイじゃないんだから、絶対、そんなことは無いはずだけど…。
「……姉さん……」
 うわ! そんな涙いっぱいの切ない目で見ないでよ。そんな風に見つめられると、変な気が起きちゃうでしょ。
 でも、可愛いかも。
「シューにコレ、あげる」
 左手で隠し持ってたチョコを素早く差し出した。近くのコンビニで売ってた間に合わせだけど、効果はてきめん。…なはず。
「僕に……?」
「そう。コンビニの間に合わせで悪いけど。
 この優しいお姉様からのバレンタインチョコだ。ありがたく受け取りなさい」
 私のチョコをシューは不思議そうな顔で両手の中に納め見つめている。裏っ返したりしてそんなに私からのチョコが意外だったのかしら。
 これでも歴とした女の子なんだから、これくらい当たり前と思って貰わないと。
「姉さん……」
「ナ、ナニ?」
 チョコを見つめたままのシューが急に神妙な声を出すものだから、私の声は思わず上ずってしまった。
「これ、ちゃんとしたチョコだよね?」
 え?
「ちゃんとしたって?」
 何か変なことでも書いてあったの? それとも渡すときの作法とかあったのかな?
「このチョコ、下剤とか入ってないよね?」
「…………」
 何を言いたいの? この子は。
「姉さんがくれる物だから、てっきり何か仕掛けがあるのかと」
 はっはーん。そういうこと。
 悪戯っぽい笑顔してぇ、私を挑発しようってのね。いい度胸だわ。
「人の好意を…、何だと思ってんだこんガキャァー!」
「わーっ!! 待った!! 姉さん! 冗談だって!」
 ふ。思いっきり慌ててるわ。私をからかおうなんて10年早いわよ。
「……それだけ言えるんならもう大丈夫ね」
 シューの目線に合わせてかがみ込み、その肩に両手を乗せる。私が手をかざした時、弟は何かされると思ったのか、固く目を閉じた。けれど両肩に置かれた手を見るや、とまどいの視線を私に投げかける。
「少しは、私や母さん、父さんの気持ちを考えなさいよ」
 それだけ言うとシューの額に優しく口付けする。状況がまだ飲み込めていない彼を置き去りにして。
「ねっ! ねねね! 姉さん!?」
 後ずさることができず、その場でジタバタともがく弟が一段と可愛く見える。
「私を馬鹿にした罰よ」
「姉ーさん!」
 意地悪そうに笑ってみせるとシューは大きな声で切り返してきた。
「元気が出た所で、早く下へ下りて晩ご飯食べなさい」
 それだけ言い残し私はさっさと部屋を出て、おいしい鳥肉が待つ食卓へ向かった。
 おっと忘れてた。
 階段の下り際、顔だけを見せてシューに告げる。
「シュー。ホワイトデーの3倍返し期待してるわよ。何もなかったら今のコト、母さんたちにバラすからね」
「アーッ!! ハメたな僕をーっ!! 姉さんのバカー!!」
 一際大きな叫び声を背中で聞きながら、階段を下りる。
 なんだかんだ言いつつ、シューをかまってる私も十分、甘いのかなぁ。
 ま、その見返りはしっかり貰うけどね。
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