兄妹 -キョウダイ- の刻印

　デートからの帰り道。
　俺の影が向かい側の座席に届くほど長く延びている。それは２つ隣りに座っているティシモちゃんの影もまた同じ。
　向かいの席の子供は母親らしい女性に頭を預け、もう意識は夢の中のようだ。レールの継ぎ目で揺れても目を開けることはない。夕日の光に包まれた顔がとても幸せそう。
「ん………」
　そう、その幸せは誰にでも訪れるわけで。
「スー、スー」
　俺の隣りに座るメイミの意識も既に夢の中にある。
　遊び疲れて眠ってしまったメイミの寝顔は、全く憎らしいほど穏やかで、子供っぽくて可愛らしい。
　時々、丸く形作られる口元につられて、つい俺も顔がほころんでしまう。
「…フ」
「カワイイですよね。メイちゃんの寝顔って」
　俺の頭の中を見透かしたようなティシモちゃんのセリフ。思わず目線を彼女の顔へスライドさせる。
　ティシモちゃんもメイミがこぼした微笑みを拾い集めたであろう表情を浮かべている。いや、どちらかと言えばメイミよりも大人びた柔和な表情。
　俺もこんな顔でメイミのことを見てたのか。
「ああ。
　コイツ、寝ている時だけは大人しくて可愛いからな。昼間はあんだけ生意気で人のことを気にかけないくせに」
　俺がそういうと、彼女はすかさず、口元へ左手を寄せ軽く笑い声を漏らす。ティシモちゃんのそうした両家のお嬢様らしい仕草が、俺と彼女の階級の違いというか、“距離”を感じさせる。本当に付き合っているのが俺で良いのだろうか？
「フフ。そんなことはありません。メイちゃんは私たちに……。
　特に」
　そこで言葉を切って彼女は俺を一瞬、真っ直ぐに見つめた。
「私に気を遣ってくれているんです。私が緊張しないように」
　一気に言い切って軽く息をつく彼女。夕日の光だけでなく、赤らんだ頬がちょっぴり色っぽい。
　レールの継ぎ目の一拍と心臓の鼓動の一拍が共鳴した。
「メイちゃん自身は多分、そんなに意識してないと思うんですけど、私に凄く気を遣ってくれているんです」
　ティシモちゃんの柔らかそうな指が伸びて、メイミの前髪を手櫛で梳く。それから妹の髪の感触を楽しむように、母が小さな子供をあやすように、その仕草を繰り返した。
　それが心地良いのか、メイミは時々、気持ちよさそうな吐息を漏らす。
「それは…」「私は…」
　俺の質問と彼女の発言は同時で、結果的にお互いがお互いの話しを遮ってしまった。
　思わずうつむいて耳が赤くなる彼女の反応が可愛くて。
　謝ることを忘れてしまう。
　手で指し示し、話しの続きを促すとティシモちゃんはメイミの髪をいじるのをやめて、改まった様子で自分の膝の上に手を組み、そこを見つめる。
「私はリクトさんが想像する通りの女の子で、今まで男性の方とお話しをする機会はほとんどありませんでした。今こうしてリクトさんとお話しをしているのが不思議なくらい男の人とお話ししたことがないんです」
　彼女はそう言いながら見つめていた指先を動かし始めた。相当緊張しているのだろう。話すそばから語尾が震えて、消え入りそうに小さくなる。
　そう、彼女自身が言う通り、ティシモちゃんは臆病とも思えるほど人に対して、特に男に対して遠慮をしてしまうようなのだ。それは今の彼女の行動にもあらわれているし、メイミが送ってきてくれるビデオメールからも感じ取れていた。
　今日で俺とのデートは３回目を数えるけれど、２人っきりの時に見せる他人行儀な所が最初の頃と全く変わっていない。
「だから、リクトさんとこうしてお話しする時も緊張するんです。早く直さなくちゃって思ってるんですけど」
　ティシモちゃんの指先はせわしなく動きながら、それでも話しを続ける。彼女なりの精一杯の勇気を振り絞っているはずだ。
　俺との会話のためにそれだけ一生懸命になってくれる彼女がとてもいじらしく可愛い。メイミに抱くのとは違う柔らかくて優しくて甘い感情がわき上がってくる。
「無理に直すことはないよ。
　時間はこれからいくらでもある。ゆっくり慣れていけばいい。
　それだけだよ」
　俺は努めてゆっくり、ティシモちゃんを諭すようなつもりで言葉を発した。今、この胸にわき上がっている素直な気持ちの通りに。逆らうことなく心に従うまま、俺が思うことを告げた。
　彼女の指の動きが止まり、おずおずとその前髪が持ち上がり、その視線が俺の体を駈けのぼってくる。
　斜めに差し込むオレンジ色の光に縁取られ、艶やかにその光が映り込む瞳は妙に色っぽい。一瞬、ここがリニアレールの車内で２人の間にメイミが寝ていることを忘れさせるような、儚さと妖艶さの邂逅。
　なんだろう。鼓動は相変わらず、レールの継ぎ目と同じリズムを刻んでいるのに、頭の中は冷静さを欠いている。
「…そうですよね」
　その一言で、彼女の顔から先程の妖艶さは消え去り、ティシモちゃんらしいおっとりとした笑みが浮かぶ。
「あまり無理をしてお話しすると、焦ってもっと緊張してしまいますものね」
「そう。ティシモちゃんが緊張していると俺まで緊張して話しが続かなくなりそうだもん。もっと気楽に構えてくれていいから」
「ハイ」
　可愛い。これが多分、彼女の本当の笑顔。
「そうそう。今みたいな感じで。そうやって笑うと可愛いよ」
「そんな……」
　ティシモちゃんは再び、赤くなってうつむいてしまった。元々照れ屋な所があるんだろうな。
「ところで気になってたんだけど」
「ハイ」
　彼女は赤い顔のまま、ほんの少し目線を俺の方へ寄せてくれた。
「さっき、メイミがティシモちゃんに気を遣ってくれてるって言ってたけど、あれってどういう意味なの？」
「あれはですね…」
　ティシモちゃんは再び自分の指先を見つめる。その指先を数回せわしなく動かした後、思い出したようにメイミの額へと運んだ。指の重さでメイミの前髪が軽く揺らぐ。そうして先程と同じようにゆっくり、ゆっくりメイミの髪を梳く。
　メイミがまた寝息の合間に気持ちよさそうな吐息を漏らし始めた。
「私がその、男の人との経験がないことは当然メイちゃんも知っています。私がリクトさんと２人きりになると、もの凄く緊張してしまうことも分かってくれてて。
　だからなるべく一緒に居てくれるようにしてるんです、メイちゃんは多分。
　その、私が慣れるまで」
　俺との会話の時はあれだけ堅くなっていたのに、メイミの話しをする時は不思議と落ち着いているティシモちゃん。メイミの髪を梳く手は相変わらず止まらないけれど、その動きはとっても穏やかだ。
　もしかしたらメイミは自分がティシモちゃんと一緒に居ることで、彼女自身を落ち着かせていることを直感的に気付いているのかもしれない。昔からそう言う所があったし。
「だから、メイちゃんは私がお願いするよりも先にデートについて来るって言ってくれるし、思いっきりはしゃいで、私とリクトさんの仲人役になってくれてるんだと、私は思ってるんです。
　緊張の息苦しさより、３人で楽しめるドキドキで私にリクトさんとのデートを慣れてもらおうとしてるのかも…」
「どうだろうなぁ、単に自分が楽しみたいだけなんじゃ…」
　言葉ではそう言ってみても、おそらく、ティシモちゃんの言うことが正しい。
「でもコイツ、昔からそう言う所もあったからなぁ。本人は気付いてないようだけど……あ」
　ティシモちゃんがまたあの柔和な笑みを浮かべている。いつの間にか俺の口が勝手に本音を語っていたらしい。
「フフ…。やっぱりメイちゃんは昔からそうだったんですね」
　驚いた。俺はいつの間にかティシモちゃんのペースに飲まれてる。何かこの子が落ち着いて話しをすると不思議な包容力が発揮されるみたいだ。自然に自分の本音を語ることが出来る。どこか夏の草原を凪ぐ一筋のそよ風のような、そんな心地良さがある。
「ああ。メイミは昔からそう言う所が凄かった。人の気持ちに敏感で、ごく自然に気遣いが出来てその人の支えになれる所が」
　俺は目の前のメイミの寝顔と、昔の小さかった頃のメイミの横顔を思い出し、重ねてみる。外見こそ女の子っぽくなったものの色気にはほど遠い。最もそんな色気などがつき始めたら、俺は気が気ではいられないと思うけど。
　メイミの本質は昔も今もほとんど変わりない。無邪気に走り回る所とか、何に対しても真っ直ぐで一生懸命な所とか。
「昔も今も変わってないよ」
　改めて俺は宣言するように言った。それが誰に向けてのものなのか、自分でもよく分からなかったけれど。
「私は羨ましいんです。そんなメイちゃんが」
　ティシモちゃんの声のトーンがほんの少し、下がったように聞こえた。
「比べられないくらい魅力がたくさんある所が」
　それはこの優しい笑顔を持つティシモちゃんの本音。彼女の影の部分。俺はなぜかこのとき、そんな彼女が可愛いと思えた。
「俺も…」
　ティシモちゃんの動きっぱなしだった指が止まる。目線はメイミの寝顔に止まったまま、だがしかし耳だけは俺のセリフを聞き漏らさないようにそばだてているのが分かる。
「俺も羨ましいと思う。メイミのそうやって人を気遣える所とか。
　それから。
　メイミのそう言う所に気付けるティシモちゃんの優しさとかね」
　目の前の女の子は俺が言い終わる前にゆっくり、顔を上げた。
　今までのデートで一度も見たことのない表情。惚けたような、虚を突かれたような、目を丸くした顔。
　あれほど距離感を感じた彼女が今、より身近に感じられる。
「２人とも俺から見れば羨ましいし、魅力的だよ。２人とも俺にはない“らしさ”があるから」
「……私の“らしさ”ってなんですか？」
　ティシモちゃんは目線だけを落として俺に聞く。頬は夕日の力を借りずとも十分赤い。
「さっき言った優しさと、なんて言えば良いんだろう。柔らかさ、かな。言葉とか、動きとか、色々な所に滲み出てくる柔らかさの魅力」
「柔らかさの魅力……」
　まるで熱に浮かされたように彼女は俺の言葉を反すうした。やがてティシモちゃんはメイミの前髪に添えられていた指を、その右手を左手で包み込み、自分の胸の前で強く握った。相変わらず視線は下を向いたまま。
「……………それじゃリクトさん。
　私にキスしてくれませんか？」
「！？」
　唐突に何を言い出すんだ、この娘は。
　俺は声にならない叫び声を上げた。
　小さくて聞き取りづらかったけど、確かにティシモちゃんはキスと言った。
　俺には彼女の考えが読めない。目線を下げたままだから表情から何かを読み取るというのも無理だ。
　男に不慣れな彼女が突然発した爆弾発言。そこにどれだけの思いを乗せたのか、想像だに出来ない。こんなこと初めてだ。
　早く彼女の想いに答えなくては。流れに任せちゃいけない。
　数秒の間……。
「………………」
　彼女は微動だにせず、俺の反応を待っている。
　意を決し、自分の右手を俺は彼女の左手に触れさせた。
　ティシモちゃんの肩がビクッと震えたのが分かる。
　そして生気を失っていた彼女の右手が爆弾発言と同じように唐突に左右へ振られた。
「ややや、やっぱり良いです！　私がその…」
　彼女の慌てぶりをよそに俺の意志は変わらない。ここまで来たら止められない。
　唇が触れた。
「ア！！」
「今はこれが精一杯」
　驚きと、焦りと、恥ずかしさと、その他色々なもので湯気を噴きそうになっている彼女の赤い顔を見つめて俺はこういった。
　左手の甲にはまだ感触が残っているはずだ。今度は左手を右手で包み、胸の前で握りしめているティシモちゃん。
　本当に今日はおかしい。俺はどうかしている。言われたからって、手の甲だからって本当にキスするなんて。いくらティシモちゃんへの想いの精一杯だからって、本当にキスするなんて。
　ティシモちゃんの動揺に同調したのか、俺の顔も赤くなっていくのが分かった。鏡を見ればそこには茹で蛸になった俺が居るのだろう。
　横目で伺う彼女の横顔は真っ赤で。
　太陽の巨体が空から海へ浮かび始め留頃の光は、胸の前で手を握りしめている彼女の姿を車内の風景から明確に切り取っている。
　そう、ここはリニアレールの車内で、メイミを起こさなければならない駅まで十数分の間、俺とティシモちゃんはずっとそのままの体勢で固まっていた。
　結局、俺にはあの「キスして」発現の意味は分からなかった。
　けれどあれ以降、ティシモちゃんのよそよそしい態度は少し和らいだ様な気がしている。