EARTHLING

２
　文字通り滑るように南南東路を疾走する黒いスポーツドライブ。
　片側二車線の通りを左へ右へ。前を走っていたエアドライブが次々後方へ消えていく。ドアの向こう側で風のうなり声が幾度となく聞こえた。美女は両手のレバーと両足のペダルを駆使して巧みにスポーツドライブを操ってみせる。既に見つかれば公安が追いかけてきそうなほどの速度。ここが一般道でなければさらに加速しそうな勢いだ。
（多分、あの男なら何か仕掛けてくるはず…）
　まだベルティの中の警鐘は鳴り止んでいない。コントロールスティックを握る手に力がこもる。速度を上げられない車道の狭さがもどかしい。視界の隅にサイドミラーを捉える。今の所、追っ手は掛かっていないようだ。
　だが油断は禁物。
「様子はどう？」
　助手席で備え付けのキーボードを叩くアルフォンスに問う。
「ジャミングが利いてるお陰で、まだ公安の追っ手は無し。
　ただこんなのが1分くらい前に流された」
　そう言ってアルフォンスは目の前に浮かぶ画面のフォルダから、1つのデジタルデータを摘み出した。そのデータは1枚の半透明な紙のようにスルスルと画面から飛び出してくる。今もフォルダに続々と溜め込まれているのは傍受した警察通信のデータだ。
　摘み出した半透明な紙状のデータを、アルフォンスはベルティに向かって放る。するとそれはフロントグラスの、ベルティの運転には支障のない位置にピタッと張り付いた。
　そこに載っていたのは、ベルティが今操っているスポーツドライブと同車種の画像とその特徴、パーソナルナンバーなどである。
「垂れ込み？」
「恐らくあのファロージャのおっさんがね」
　憎らしげにアルフォンスは言い放ち、キーボードを叩くリズムが一瞬狂った。
「…なるほどね、公安も駆り出す気か…」
　思わず苦笑が漏れるベルティ。いつのまにかファロージャを目の敵にしているアルフォンスがちょっと可笑しかったらしい。
「そうなると、正攻法では無理ね」
　ボウリングのピンのように並ぶエアドライブを連続して抜き去りながらベルティは呟いた。
　頭の中では過去に公安が逃走する犯人を捕まえるために取った行動パターンと今の自分たちの状況が照らし合わされシミュレートされている。
　リーダーからの連絡はまだ来ないし、目的地が予想と違っていたら厄介だ。公安の数に物を言わせて取り囲まれたら、逃げるには不利になる。なら多少の無茶は承知でも。
　ベルティはチラリとバックミラーを見た。
　しっかりセーフティロックを掛けて座る3人がいる。勝手が違うのか、空から降ってきた少女はすっかり畏まり、黙ったままだ。出会って数分も立たぬうちにこんな狭い空間へ押し込まれれば、無理からぬ事だろう。それとも単純にこの速度が慣れないだけか。
　少女の両側に座る2人も、彼女の雰囲気に押されて窓の外やフロントグラスへ視線を彷徨わせる以外は口を噤んだままである。もっともアーサーだけは、時折話したさそうな視線を少女に送ってはいた。
　微笑ましい光景に美女は思う。リスクは減らした方がよい。彼女の決断は早かった。
「アル。相手の動きで目立ったことは？」
「さっきの垂れ込み後、公安がこっちを探し始めた。
　それと……」
　自分の周囲を取り囲んで浮かぶ複数の画面の中から、アルフォンスは1つの画面をクローズアップさせた。
「監視衛星が1機、こっちに向かって来てる。偶然かもしれないけど」
　画面の中の宇宙空間には簡略化された地球が浮かび、その表面に沿って軌道を描く1機の衛星が示されている。
「…やはりね」
　確信して肯く美女。画面を見てはいない。
「やはりって…！」
　青年の顔が青ざめた。
「そ。あのファロージャさんは本物だったって事よ。しかも」
　ベルティはもう一度バックミラー越しに、今度はマルチだけを見る。視線を感じたマルチが顔を上げ2人の視線が交錯した。
「アンタは相当な重要人物みたいね」
　美女がウインクをするとマルチは両の目尻をつり上げ、鋭い視線を返した。
　ベルティの口調はとても楽しげだ。まるで映画のような展開に興奮しているのかもしれない。それとも彼女に関わったことで発生する報奨金が目当てだろうか。恐らくは後者だと思われるが。
「警告っ！　衝突しますっ！　衝突し…」
「姐さんっ！　前っ！」
「おっと！」
　スポーツドライブとアルフォンスから同時に警告が来る。素早くコントロールスティックを左へ倒し、左のラダーペダルを踏み込む。ほぼ同時に左手のスロットルレバーと指先に触れているブレーキレバーを引く。右足は即座に左隣の緊急用ブレーキペダルへ。危うく前の青いエアドライブへ追突するところだ。
　ギリギリで避けられた相手は中央分離帯へ衝突しそうになっていた。クラクションが遠くで響く。
「ゴメンよ。みんな大丈夫かい？」
　美女は前方を見据えたまま問いかけた。反省はしても速度は落とさない。
「問題ないぜ、姐さん」
　アルフォンスは変わらず流れてくる監視システムの情報を監視している。
「後ろは？」
　バックミラー越しに問う美女。
「大丈夫。ベルティの腕は信頼してるから」
「はい」
　返事を返すアーサーとユリカに対して、マルチはムスッとした抗議の表情を返した。心なしか顔が青ざめているようにも見えるが大丈夫そうだ。
　ベルティはフロントグラスに向かって呼びかけた。
「レネ」
「ハーイ、マイマスター！」
　それに応じて、彼女のCMCがフロントグラスの中央に現れた。美女へ体全体を向けて溌剌と答える。
　アーサーのCMCであるユージスとは違い、こちらは少女の格好をしている。艶やかなセミロングの黒髪をツーテールにまとめ、少女趣味丸出しの赤いワンピースに身を包み、真っ白なオーバーニーソックス、赤いヒールのある靴を履いている。ワンピースやオーバーニーソックスの縁取りには全て真っ白なフリルが飾り付けられ、なぜか背中にはランドセルに似たザックらしき物。その風貌はピカピカのランドセルを背負った小学1年生のようである。
　どう贔屓目に見ても美女には相応しくない姿のCMCだが、車内の誰も突っ込みはしなかった。慣れているのだろう。
　唯一、マルチだけは不思議な物、それこそ天然記念物を見るように目を瞬かせている。
「現在位置からインターまでの間にトンネル、又はそれに似た箇所はいくつある？」
「少々、お待ち下さいませ！」
　黄色い声でそう言うとCMCレネは、背負っていたランドセルを下ろして蓋を開け、両手を突っ込んで中を探し始めた。妙に芸の細かいCMCである。
　2秒ほどして。
「分かりました！　今のルートを真っ直ぐ進みますと、該当するのはこの3箇所でございます！」
　得意そうに微笑む。どう見てもランドセルには入らない大きさのプラカードを中から取り出して掲げた。そのプラカードの表面に検索結果の地図が表示される。
「その中で15秒以上、その状態が続くのは？　今の速度で」
「それですとこの1箇所のみになります」
　表示された3つの候補から中央の図が点滅し拡大された。表示しているプラカードも大きくなる。CMCレネの所作もそれに併せて重い物を必死で支えているような格好に変わった。
「なるほどね。分かったわ」
「お、お役に立ちましたで、しょうか？」
　声を震わせながら笑みを作るCMCレネ。
「ええ。無事に逃げ切れたらご褒美を上げるわ」
「うわーい！　やったです！　ありがとうございます！　マイマスター！」
　飛び上がって喜ぶCMCレネ。しかも両手を放したものだから、自立できないプラカードは彼女の頭上を目掛けて襲いかかった。角の鋭い一撃が脳天を直撃したことは言うまでもない。CMCレネはそのまま、両手を患部に当ててうずくまった。プラカードが倒れてくる加速度と、彼女の飛び上がった加速度が合致したのだから、その傷は深いだろう。声も出さず、背中を向けて小刻みに震えている。やはりどこまでも芸が細かいCMCである。
　後部座席に座るマルチは相変わらず目を瞬かせたまま、突っ込もうか、それとも両隣りの2人に説明を求めようか迷っていた。
「無事に逃げ切れたら、よ。まだ喜ぶのは早いわ」
　相棒の惨状に目を細めるベルティ。さらに要求を追加する。
「現在位置からそのトンネルの出口まで、カウントダウンをお願い」
「りょ、了解です」
　蚊の鳴くような声が返ってくる。CMCレネはまだ脳天を押さえながら、それでも自分を襲った憎たらしいプラカードを杖代わりにおずおずと立ち上がった。
「それからトンネル入り口までと、入り口から出口まで。3つのカウントダウンを別々に表示して欲しいの。入り口の20秒前から音声のカウントダウンもお願い」
「わ、分かりました」
　何とか元のように声を張り、CMCルネは美女に言われるままフロントグラスへ、まるでオーケストラの指揮者がタクトを振るような仕草で3種類の数値を表示した。ベルティの運転の邪魔にならず、なおかつ見やすく目立つ位置へ。先程の汚名を返上しようと彼女は必死である。
　表示された内2つの数値は物凄い勢いで点滅している。
「ありがと」
　美女は相棒の働きにウインクで答えた。
　CMCルネは、少し疲れた表情で笑みを返した。声を出して答えるだけの余裕はないらしい。どこかそれほど消費する動作があっただろうか。
　トンネルまでは残り5分弱。
「アル。衛星はあとどれくらい？」
　もう一度、宙に浮いた仮想地球の画面を引き寄せる青年。
「最速で3分。遅くても5分以内」
　無機質に答え、彼はすぐ元の画面に集中する。
（よし！　行ける！）
　心の中で確信を得たベルティはほくそ笑んだ。その心底楽しそうに白い歯を見せて微笑む美女を横目でチラリと捉える青年。
「マルチ。アーサー」
「……」「ハイ」
　美女の不意の呼びかけに答えたのはアーサーだ。マルチは視線を向けただけ。ユリカも同じように右斜め前の運転席へ視線を向ける。
「アンタたち2人は降りて頂戴。この先で」
「「……」」
　呼ばれた2人はベルティの言葉の意味が分からずキョトンと声の方を見つめている。
「…………え？」
　短い沈黙を破り、アーサーが聞き返した。
「降りてって言ったのよ。この先で！」
　少し機嫌が悪そうにベルティは同じ内容を繰り返した。
　アーサーとマルチの2人は2回目の美女の言葉を聞いても、その意味を理解するまでに数秒を要した。
「ウソでしょっ！？」
　大きな声で再び疑問を返したのはマルチだった。
　窓の外ではまた風を切り裂く音が続いている。

＊

「全くなんなのよーっ！　もうーっ！」
　少女は歩道の脇に立っている道路標識の支柱に向かって、何度も蹴りを入れていた。既にその部分は、コの字型に凹んでいる。湾岸道路から続く真っ平らな大地の上で、そのシルエットはやたら目立っていた。
「お嬢様、間もなく迎えの車が参りますので落ち着いて…」
「ウルサイッ！　ワタクシにこのような屈辱を味合わせるなど1億年あっても足りませんわっ！」
　口にすることでさらに怒りが増した少女は、再び支柱に蹴りを入れ始めた。和装の趣を持つ紫の上着が翻る。
「はぁー……」
　付き人らしきスーツ姿の青年は、大きくため息をついた。あの支柱も弁償しなければならないのかと。
　彼が顔を上げた先には後部トランク部分が見事に潰れた青いエアドライブと、同じく前部エンジン部分が潰れた白いRV車が停まっている。RV車の傍らにはその搭乗者と思しき人影。
「はぁー……」
　惨状を思い出して青年は大きくまたため息をついた。
　そのため息が殊の外、大きすぎて少女に聞こえやしないかと慌てて青年は口を覆ったが心配には及ばない。彼の背後を通り過ぎたパトカーのサイレンがそれをかき消してくれた。
　青年はすかさず振り返り、そのけたたましい音を見送った。こんな近くに来るまでサイレンの音に気が付かなかった自分の注意力の欠如を戒める。そして自分の疲労がかなり溜まっていることも実感した。
　元の位置へ顔を戻せば、サイレンなどお構いなしで支柱を蹴り続ける少女が居る。もはや支柱は言葉では言い表せない、出来損ないの知恵の輪のようになっていた。
「はぁー……」
　三度ため息をつき、少女を止めようと青年は一歩を踏み出す。そんな彼の背後を今まさに通り過ぎた黒塗りの高級車こそが、彼が被害を被った事故の原因となった黒いスポーツドライブと大きく関係しているとは、霞にも思わなかっただろう。

＊

　8輪のタイヤが道路を削るような唸りを上げている。今にしては珍しい角張ったデザインのボディ。深い艶を持つ黒塗りの風貌がクラシックカーとしての趣を放つ。座席に収まっている男たちもそれに相応しいクラシカルな装いである。
　助手に座るハンブルグ帽の男はまさにそう、ファロージャ・ブラックその人である。運転席にてハンドルを握る男もハンブルグ帽こそ被っていないが、黒いスーツに身を包んでいる。ネクタイもファロージャと同じ黒。同じ組織の人間であることは明白だ。
「いいんですか？　公安を巻き込んで」
　運転席の男は右の助手席に座る上司の顔を伺う。視界の端には前を走る4輪のパトカーを見据えたまま。
「構いませんよ。捕まえさえすればこちらの権限で引き渡しを要求できる。経費を掛けない賢いやり方です」
　ハンブルグ帽の紳士が唇の端を持ち上げた。
「はぁ、なるほど」
　運転席の男は生返事を返す。
　経費節減には賛同する。自分たちの所属する地球界警察機構が政府お抱えの機関とは言っても予算には限りがあり、政府としては戦後の復興事業にこそ予算を回したいはずだ。運転席の男の脳裏を田舎に残してきた母の面影が過ぎる。
　だが助手席の上司が言う賢いやり方には疑問がある。自分たちは地球界警察機構の刑事なのだ。犯人を追い詰めるとはもっとこう、必至の思いで当たらなければならないのではないか？　それこそが自分の志したこの仕事の本当の姿のはず。
「君の考えていることも一理あります」
　ファロージャの穏やかな声が聞こえた。初老の紳士は部下の方を向きもせず、その心中を察したようだ。
「私のやり方に不満なのでしょう？　君から強い意志をヒシヒシと感じます」
「いや別にそう言うわけでは」
　図星だった。運転席の男はそんなに不満な顔をしていたのだろうかとバックミラーをチラリと覗く。
「君のその熱い意思も必要です、この仕事には。
　しかしだからこそ、その情熱を浪費するようなやり方は避けなければならない。この事件が解決できても世界は続いている。我々には残念ですが次の仕事が待っている…」
　淡々と語る上司の言葉を部下は静かに聞き入っている。今し方上司に抱いた不満が消えていく。初老の男が語る言葉の端々に小さく迸る情熱。この助手席の男も自分と同じ意思を持っている。
「我々が思うほど我々の心は強くはないのです。次々と起こる事件がその証拠です。君の意志がどんなに強くてもいつ挫けるか分からない。だからこそ効率の良い方法を採り、力を浪費せず情熱を蓄えておくことも必要と私は思っているのですが…」
　ふと思い起こせばこのブラックという上司は先の戦争を生き延びた元軍人と聞いている。故に人並み外れた精神力を持ち、意志も強靱なはずだ。それを加味すると、この上司の言っていることが何となく理解できる。
「君は違いますか？」
　ファロージャが確かな意思を持って部下を見つめる。
　投げかけられた運転席の男は惚けたように一瞬だけ上司の方へ顔を向け、すぐ思い出したように前方へ視線を戻す。
「やり方は違います。けれど志は同じです」
　答えながら部下の心に静かな闘志が生まれていた。
　ファロージャは満足したように肯き、部下と同じように前方を見据える。唇の端が小さく持ち上がった。

＊

　最後の先行車をギリギリでかわす。
　スポーツドライブといえど、空気抵抗はゼロではない。先行車が居なくなれば空気抵抗は増える。ベルティは重たくなった車体に加速をかける。左手のスロットルレバーから伝わる振動。
　視界が開けた。さらに前を走る車両とは500m近く離れている。疾走する風が見える。
　レースの時と同じ。駆け抜ける爽快感。いつ感じても良いものだ。
　最初のトンネルまで数十秒。今なら目撃者は誰もいない。願ってもないチャンス。
「降りろってどういうコトよっ！」
　ふとそこで盛り上がってきたベルティの気持ちを逆撫でする声が響く。マルチだ。
「そのままの意味よ」
　美女は少しドスの利いた声で答えた。
　ベルティは「念のため補助をお願い、レネ」と言い、チラリチラリとバックミラーを見ながら少女との話しを続けた。意識の端で聞こえた「了解です！　マイマスター！」と言う相棒の黄色い声が心を落ち着かせる。
「いい？　時間がないの、詳しく話してる。アンタはかなりの重要人物で、あのファロージャって男の肩書きも本物。私たちはあと5分弱で捕まるわ、監視衛星に。あれから逃げるのは容易じゃない。
　その前にアンタを下ろして追っ手を攪乱するのよ。この車を囮にしてね」
　スポーツドライブが最初のトンネルに突入した。グラビティドライブの騒音が、トンネル内でこもり、若干会話がし辛くなる。相手の顔は見難い。
　ベルティは少し声を張った。
「ここまで来たらお互い様。巻き込まれた以上、巻き込まれ損は私の主義じゃないの。絶対アンタを逃がしてあげる。だからアンタも私を信頼して」
　美女はバックミラー越しに少女の瞳を見つめる。トンネル内の見辛い状況でも彼女の瞳には確かな力が宿っていた。
「……」
　車内全員の意識がマルチに集中している。少女の返答次第で、この先の全てが決まる。
「…分かったわよ…」
　マルチは少し俯いて、それでも車内の全員に聞こえるよう声を上げた。
　次の瞬間、その答えを待っていたように車内が光で満たされる。最初のトンネルを抜けたのだ。
　美女の顔が悪戯っぽく綻ぶ。バックミラーに軽くウインク。
「オーケー！
　それじゃ逃げ切れた暁にはお礼をよろしく」
　美女と少女の契約が成立。ベルティは今の会話を嬉々としてレネに記録させた。
　この少女は地球界警察機構があのファロージャと言う男を投入してまで追いかけてくる重要人物だ。ならば彼女がどんな秘密を握っているにしろ、その背後で莫大な金額が動いているはず。監視衛星のようなコストの塊とも言える設備を投入してもなお、帳簿が焦げ付かないほどの。
　そのやぶさかでない内情に首を突っ込むことが出来れば、必ず金儲けが出来るとベルティの勘は告げている。結果、少女をダシにしてしまうかもしれないが、その時にはあのファロージャではなく、信頼の置ける関係者に預ければいい。それまでは仲間だ。
　それが守銭奴たる美女の考えた筋書き。個性派ばかりのチームグローブが破産しない最大の要因。
　ベルティはバックミラー越しの彼女にもう一度、ウインクを送る。
　当のマルチはなんのことか分からずキョトンとしているが。
「次のトンネルでトップルーフを開けるわ。そこからアーサーのエアボードに乗り移って」
　マルチは車体の天井を、アーサーは景色が飛び去っていく右のウィンドウを見る。この速度の中を他の乗り物へ飛び移るのは無謀ではないだろうか。アーサーの脳裏を過ぎった疑問は美女の次のセリフで外の景色と同じように飛び去っていった。
「マルチ。アンタは服脱いで」
「っ！」
「ナッ！」
「キャッ！」
　マルチ、アーサー、ユリカの3人は思わず目を丸くした。アルフォンスだけは意図を察したのか、意に介さずキーボードを叩いている。ただその顔が緩んでいることは言うまでもない。
　いきなり降りろだの、服を脱げだの、突拍子もないことを次々と言われマルチはほんの数秒前、彼女を信頼したことを後悔した。
「念のためよ。ユリカと服を交換して。ファロージャ以外だったら騙せるはずだから」
　そうならそう言って欲しいと後部座席の3人は、ベルティを一瞬だけ睨み付けた。
　正式なリーダーが居ない現状で彼女に異を唱える者はいない。そして彼女の経験からはじき出された指示に疑問を持つ者も居ない。
「…ってここでっ！？」
「！！！！」
　事態を飲み込んだマルチが声を上げる。ユリカの顔が一瞬にして茹だった。アーサーも同様、自分のことでもないのに、思いっきり恥ずかしそうな表情をしている。
「そうよ急いで、あと4分も無いから」
　ベルティは意に介さず運転に集中している。
「だってコイツとかそいつが一緒に乗ってんのよ！　出来るわけないでしょっ！」
　ベルティの気にするなという態度にくってかかるマルチ。ユリカも激しく首を縦に振っている。アーサーはポカンとそれを見守るしかない。
「言ったでしょ。議論してる時間はないの。恥ずかしいんなら…」
「オレが手伝ってやろうか？」
「ウルサイ！
　アル！　アーサーも。目閉じて」
「ハ、ハイ！」
「ちぇ…」
　青年と少年は言われるまま両眼を閉じる。
　アーサーはもう、自分の中で高まる動機を抑えるにはこれしかないと思った。
　アルフォンスはむしろ残念そうに瞼の奥で眼を動かしている。
「レネ、監視をよろしく。ちょっとでも開けたら警報鳴らして」
「了解です！　マイマスター」
　CMCレネシスがビシッと敬礼する。彼女はいつでも女性の味方なのだ。
「これで良いでしょ、早くしてよ。あのトンネルに入ったら開けるからね、トップルーフ」
　フロントグラスでカウントされている残り時間はあと3分08秒。ベルティの顎が示した次のトンネルが徐々に迫っている。
　チラリと横に座っているアーサーを確認するマルチ。両眼はしっかりと閉じられている。少年の瞼の前へ手をかざす。動かしてみても反応はない。大丈夫そうだ。前の座席にいる青年は…、美女とその相棒を信頼する他はないだろう。
　おもむろにユリカと目線をかわし、マルチはさっさと自分の着ている服を脱いでいく。
　一度心が決まってしまえば彼女の行動は早い。ポケットがたくさんついた白いベストを素早く脱ぐ。続いて手首、足首、腰回りを固定するストッパー、ベルトを外し、前身頃のカバーに隠れたファスナーを首から下腹部まで一気に引き下ろす。見ている方も惚れ惚れするほどの脱ぎっぷりだ。
　一方、ユリカはのろのろと服をめくっていく。下半身は丈の長い白のスカート1枚なので楽だが、上半身は薄い水色のカーディガンにスカートとお揃いの半袖シャツ、さらに肌着の薄いTシャツを着ているため、時間がかかっている。狭い上に座ったままなので余計苦労していた。
　横から聞こえる衣擦れやファスナーの音がアーサーの鼓膜を刺激する。既にマルチの素肌は見てしまっているのに、その時以上の興奮が想像力を加速させる。
　拮抗して少年の頭の中ではエアドライブが次のトンネルの中へ突入してからの過程を必至にシミュレートしている。興奮を抑えなければいけない。いざというときに立てないなんてみっともない姿は見せられない。
「！　アナタ下着ハ！？」
　ユリカが素っ頓狂な声を上げる。
　ツナギのようなオレンジの服の下はすぐに素肌。マルチは肌着どころか、下着さえも着けていなかった。
　少女の指摘でアーサー、アルフォンス両名の瞼が身じろぎを繰り返す。だが美女が指示した警報は鳴らない。
　アルフォンスはもはや頭の中にその状況を夢想して楽しんでいるのかもしれない。
　アーサーはそのことを指摘したユリカよりも真っ赤になっている。ウィンドウのガラスに頬を密着させて冷やすのが精一杯。
「…そんなのあとあと。時間ないよ」
　数台の対向車がサイドミラーの中であっという間に小さくなっていく。
　目標のトンネルまではあとわずか。
　カウンターの数字は間もなく2分に迫ろうとしていた。
「ハイ」
「分かってるわよ」
　続いて靴に手を掛けるマルチ。ユリカも思い出したように自分の踵へ指を伸ばす。車内でしかも異性のすぐ隣りで着替えると言うシチュエーションが彼女たちを混乱させているらしい。
「ああ、靴は良いよ、交換しなくて」
　少女2人の指がピタリと止まる。
「マルチのには、多分エアドライブが入ってんだろ？」
「「「「「！！」」」」」
　急に車内が色めき立った。常識では不可能なサイズだ。現在のエアドライブはエアボードに使われているものが最小サイズ。それ以下は研究室レベルでも実現されていないというのに。
「アンタがアーサーにドロップキックをかましたろ。普通なら顔の複雑骨折、ヘタすりゃ死んでたよあの高さは」
　言われてみれば口論の時、アルフォンスが指差した建物は5階建てだった。そこから飛び降りた人間を顔面だけで受け止めて軽傷というのは奇跡でも起きない限りまず不可能だ。
　もし、ベルティの言うとおり、マルチの靴にグラビティドライブが内蔵されていているとしたら、衝撃を和らげるのは容易い。
「それがアンタが追っかけられてる理由の1つかもね」
　美女は笑いながら陽気に話すが、マルチは押し黙ったまま動きを止めてしまう。
　どうやら積極的には話したくない事情があるようだ。
「ほらほら、手動かして、手」
　靴はそのまま、少女たちはお互い気恥ずかしそうに顔を赤くして服を交換する。マルチは素っ裸に靴だけ。ユリカは下着姿に白いソックスと靴だけという、アルフォンスが見たら大喜びしそうな絵姿である。
　渡された服を見て最初は神妙な顔つきだったマルチだが、ユリカが脱いでいた順番を思い出し、それを逆回しにして服を着ていく。スカートはすぐ履けたものの、先がヒラヒラしているのは動き辛そうだ。それにシャツは明らかに胸がキツく激しく動くと息がツラそう。これで逃げ回れるのかと不安な面持ちで隣りのユリカを見る。
　一方、たった2枚しかないマルチの服を着たユリカは思わず顔をしかめ、ちょっとだけ嫉妬混じりの視線を彼女へ投げかけた。マルチの服は上下が一体となったツナギであり、案の定、着る人のプロポーションが如実に反映されてしまう。身長がほぼ同じで、プロポーションも似ていると思ったユリカは複雑だった。どう見ても胸回りが寂しい。スースーする。ウエストが太い分にはダイエットで細く出来るからまだしも、バストを大きくする決定的な方法は知らない。メガネの奥の瞳がジト目に変わる。
「…終わったようね？」
「「ハ、ハイ」」
　反射的に返事をする2人。
　美女の一言が少女たちの間に走った奇妙な火花を抑えた。
「プ！」
　同じタイミングで同じように返事をする2人に、ベルティは思わず吹き出しそうになった。今日会ったばかりの2人がまるで姉妹のようだ。
「オーケー、いいタイミングよ。
　アル、アーサー。レネももういいわ。いよいよよ」
　美女の言葉に促されるよう、全員が前方へ注目する。トンネルはすぐそこ。フロントグラスに表示された数字の色が間もなく変わる。ベルティの指示した音声カウントダウンが始まろうとしていた。
「いい？　トンネルに入ったらトップルーフを開くわ」
　――――カウント開始します。20秒前。
　CMCレネシスの黄色い声が車内中に響く。
「開ききれば後ろの窓も解放されるから、そこからエアボードに飛び移って」
　アーサーとマルチが肯く。
「アーサーはユージスと協力してエアボードをこのコの後ろへコントロール」
　アーサーだけが肯き、グラスゴーグルを掛ける。中ではCMCユージスがアーサーに向かって敬礼をしている。
　――――15秒前。
「マルチはアーサーに掴まって一緒に飛びなさい。アンタのその靴があればジャンプしてからも姿勢制御が利くはずよ」
　マルチが肯く。
「アタシとレネもサポートするから落ち着いて」
　――――10秒前。
　いよいよ、目標のトンネルが目の前に迫った。