ヒューマンタッチ

後編 　
　小狼がケトルを持って行くと、さくらは嬉しそうに受け取り、
「ありがとう」
　と一言、返した。
　その唇の動きが彼の鼓動を高めてしまう。頭から追いだしたはずの妄想は再び、彼の心をかき乱そうとしている。
　小狼はそれ以上、刺激を受けないようさくらの背後のソファーへ、自分がついさっきまで座っていた場所へ腰を下ろした。
　当のさくらはそんな思春期真っ盛りの男子の心境などつゆ知らず、お茶の準備を進める。そもそも普段から“ふんわり”な彼女にそうした男心を察してあげられるだけの経験値はないに等しいのだ。無防備に晒される彼女のうなじが、小狼をさらに追いつめていようとなんの罪があろうか。
　受け取ったケトルの中では、お湯が沸々と音を立てて沸騰している。さくらはその白湯をティーポットに注ぎ、ポットを温めた。続いてポットが適度に暖まった瞬間を見計らい、中の白湯をティーカップに移して同じように温める。
　熱を帯びた空のポットにさくらは素早く茶葉を入れ、沸騰したままのお湯を注ぐ。茶葉の銘柄はセカンドフラッシュのアッサム。それは彼女のお気に入り。小狼はわざわざその茶葉を香港から取り寄せていた。むろん、さくらはそのことを知らない。
　ティースプーン2杯分の薫りの種子たちは、透明なポットの中で上から下へ、下から上へ、浮いたり沈んだりと対流を始める。ジャンピングといわれるこの現象はまるで茶葉が琥珀色の水槽の中で踊っているかのようだ。
　さくらはその様子を、目を細めて眺めている。
　いつからこんな表情を見せるようになったのだろう？
　琥珀色に染まったティーポットに映り込む彼女の柔和な笑顔。小狼はティーポットを覗き込んでいるさくらに見惚れていた。
　思えば、そのティーセットを買ってから１年が経とうとしている。
　宝石のように輝く、丸くて透明なティーポット。同じように透明でリーフを抱えた熊が彫られたペアのティーカップとソーサー。小狼が日本に帰ってきて初めて２人で買い物に出かけたあの日。記念にと２人で選んだティーセット。
　何だか遠い昔のようで、それでいて昨日のようにも思える。
（ああ、俺はこんなにも…）
　こんなにもさくらを好きでいる。愛しくてたまらない。今にも抱きしめてそのぬくもりを、いや存在を確かめたい。きっとどんなに…。
　彼は必至で心の中の欲望と葛藤していた。
　だって、こんなにもさくらが好きだから。もし抱きしめてしまったら俺がさくらを壊してしまうかもしれないから。さくらが“ふんわり”なのは大道寺や苺鈴から散々聞かされて知っている。つかみ所のない雲のようで、だから一度捕まえたら二度と放さないようにしっかりつなぎ止めておかないと。でもそれは…。
「…………」
　小狼は何かを言おうと口を開きかけた。けれど何を口にしたらいいのか分からず、そのまま彼女の後ろ姿を見つめる。差し出した手もそのまま引っ込めてしまう。
　正直、小狼には今の自分自身が分からない。
　いつにもまして早い鼓動。散り散りになった自分の気持ち、彼女への気持ち。
　手を伸ばせば、答えはすぐそこにあるかもしれないのに。彼はその先をじっと見つけるだけ。
「あ、そろそろ良いかな？」
　ポットに見入っていたさくらが、突然、声を上げ、茶こしを手にする。
　いつの間にそこへ持ってきていたのか。
　ティーポットの脇に置かれた砂時計の砂がもうすぐ、落ちきろうとしていた。
　小狼にしてみれば、一瞬とも１時間とも思えた３分間が過ぎようとしている。
「よっと」
　さくらはティーポットを持ち上げ、十分旨味の抽出された琥珀色の液体を、茶こしを通して両のカップに注ぎ入れた。
　立ち上る甘い薫り。彼女が幸せの匂いと名付けた紅茶葉の優しい薫り。
　心を落ち着けるには絶好の機会だ。
　一度、ポットを置き、その薫りを楽しむさくら。
「んー。今日は上手に出来たかも」
　思わずさくらは小狼を振り返る。彼の淹れる紅茶にいつも完敗だったさくらにとって、今日の出来はかなりものらしい。
　勝手に盛り上がっていってしまう自分の鼓動がようやく落ち着いた小狼にそれは不意打ちだった。その笑顔は反則だ。
　続いてさくらは、別の小さなポットに入れて持ってきていたミルクを注ぐ。透明なカップの底を伝って広がる様子は真夏の青空に立ち上がる入道雲のよう。
　最後に、小狼に教えて貰った新しい甘味、メイプルシロップを一掬いティーカップに落とす。
「小狼くんも入れるよね？」
「ああ」
　小狼のカップにも同じようにメイプルシロップを落とす。軽くかき混ぜると、紅茶とミルクの薫りと合わさり、溶けるような甘い薫りが広がった。
「良い匂い」
　さくらは嬉々として仕上がったメイプルシロップ入りミルクティーを小狼に差し出した。
「はい、小狼くん」
「ありがとう」
　その瞬間、彼女の頬に赤みが差したことを小狼は見逃さなかった。
　理由は分からないけれど、そんな恥じらう仕草は今の小狼にとってこの上もない媚薬であった。
　さくらにしてみれば彼の優しい笑顔はほぼ１週間ぶり。生の笑顔と「ありがとう」のお礼まで貰っては彼女の恋愛指数は否応なく高まる。
　その上、
「旨いな、今までの中で１番」
　なんて讃辞を言われれば、もう彼女の心は小狼で満杯。自分も一口、二口、小狼のお墨付きを貰ったミルクティーを口にするけれど、その味はよく分からない。いつも以上に甘いその薫りに自分が溶かされてしまいそうだ。
「ありがとう」
　一言、そう口にするのが精一杯。
　溶けていく心と高まっていく鼓動。
（はぅー。心臓が飛び出しそうだよー）
　さくらは今、この上もないドキドキと嬉しさの真っ直中にいた。
　一方、小狼もその心境は同じ。さくらの口数が少ないことも気が付いていない。彼の心の中は既にさくらの笑顔から時間が止まってしまったのだ。
　無意識のうちに彼は飲みかけのミルクティーが入ったカップをソーサーと共にテーブルへ置いた。
　ガラスがぶつかる音。
　さくらが小狼を振り返る。
　小狼がさくらを見下ろす。
　赤い頬。わずかに開いた唇。濡れた瞳。
　さくらも。
　小狼も。
　ためらうことはなかった。
　瞳の合わせ鏡に映った互いの顔をそっと心の中にしまい込み。
　口づけを交わした。
（俺はさくらのそばにいる…）
（小狼くん、大好き…）
　それはいつにもまして甘い薫りがした。
　メイプルシロップだけじゃなくて。
　ほんのりとろけるミルクティーのような。
　甘い甘い２秒間。
　余韻を味わい最初に目にしたのは、目を閉じ真っ赤になった彼女。
　閉じた瞳の中で何を見ていたのだろうか。
　たまらない愛しさがこみ上げてくる。
「さくら…」
　名を呼ぶと彼女は小狼の胸へ飛び込んできた。
「小狼くん」
　顔を埋めて問いかけに応えるさくら。
　改めて彼はそれが自分の名であることを心の中で確認した。
　
　お互い気まずくも甘酸っぱい無言の時間の中、ちびちびと飲んでいた紅茶もなくなり、
「おかわり、淹れてくるね」
　そう言ってそそくさと席を立つさくら。
　戻ってきたときには既に、トレーの上で茶葉のダンスが始まっていた。
　考えてみれば熱湯を必要とするのに、わざわざリビングで紅茶を淹れるのはおかしな話しだ。ケトルを火から下ろしてしまうとそれだけで、中のお湯の温度は下がる。茶葉の銘柄にもよるが、美味しい紅茶を淹れるならばお湯は火にかけっぱなしが原則。
　後日、小狼が彼女に確認したところ、落ち着いた場所で淹れる手順から、小狼に見て貰いたかったという。彼に教わったやり方を練習して、その成果を見て貰いたかったと。
　その会話を山崎に盗み聞きされ、からかわれたのはまた別の話し。
　砂時計を目印に再びカップをミルクティーで満たし、小狼へ手渡すと、さくら自身もカップを手に、彼の隣りへ座った。
　一口、口にしてから、
「小狼くんて時々…」
「なんだ？」
　唐突に話し始めたさくらの横顔を見る小狼。
　さくらはカップの中の波紋に視線を落としたまま続ける。
「スゴく甘えたさんの時、あるよね？」
「な！？」
　笑顔で問うさくら。危うく吹き出しそうになる小狼。
「そうだったか！？」
「うん。さっきも」
　頬に赤みが差し、目を伏せてしまう彼女。たまらなく可愛いとは思うけれど、甘えたいとは思っていない、つもりだ。
「キスする前にスゴく視線感じたし、ポットに映った顔がとても甘えたさそうだったから」
(しまった…)
　小狼の行動は何もかもお見通しだったようだ。自分の失態に、それ以上に自分でも知らなかった気持ちを指摘され、彼は言葉もない。
　ショックを受けた様子の小狼に、さくらは優しい笑顔を投げかける。
「大丈夫。小狼くんは甘え方が分からないだけだよ。
　私も、いつもお父さんやお兄ちゃんに負担をかけないように、１人で何でもやってきたから。こうして小狼くんに会うまで甘え方、分からなかったもん」
　それが本当であることは小狼が誰よりもよく分かっている。父子家庭であるさくらは家族に心配をかけないよう誰よりも頑張っていた。
「お父さんやお兄ちゃんが私に愛情を注いでくれてるのは、スゴく分かっているの。
　きっと夜蘭さんもそうだと思う。だから小狼くんももっと甘えて良いんだよ」
　さくらは微笑んで彼を見つめる。
　小狼は何も言わなかった。何も言えなかった。
　自分をここまで理解し、受容してくれる女の子に、これ以上何を望むというのだろう。
　満面の笑みを浮かべて自分を受け止めてくれるさくらに。
　彼はたった一言だけ、
「ありがとう」
　と返した。
　それは彼女への最大の深謝を込めた言葉であり、同時に自分自身への決意の言葉でもあった。
　李家の次期当主である前に、俺はさくらが好きな１人の男だ。
　どんなことがあっても俺はずっとさくらのそばにいる。
　そう、小狼はさくらの優しい笑顔に誓うのだった。