ヒューマンタッチ

前編 　
　柔らかな冬の日差しを注いでいた太陽が、その体を静かに大地へ預けようとしている。東の空は既に今日の幕を下ろし、茜色から藍色へと至るグラデーションをまとっている。空の真ん中には輝く一番星。
　友枝中学校の制服を身につけた小狼は昨日よりもゆったりと自宅への帰路を歩む。自分の隣りを歩く女の子の歩調に合わせて。
　数日間、風邪で休んでいた彼女とこうして一緒に並んで歩けることがこんなにも嬉しいことだったとは。小狼は改めて彼女、さくらの大切さと自分の心の中を占めるその存在の大きさを知った。
（マズいな……）
　彼は心の中で自嘲気味に呟いた。思っている気持ちとは全く正反対の言葉を発して自分を戒める。
　これ以上、彼女を好きになってしまったら自分はどうなってしまうのだろう。
　――俺はさくらと出逢えたからこそ変わることが出来た。俺が思い描く未来の景色にはいつも隣りにさくらが居る。それが当たり前のように。さくらの居ない未来なんて、今の俺に思い描くことは出来ない。だがもしそうすることで、さくらを俺だけのさくらにすることで彼女の幸せが奪われてしまうのなら、俺は喜んでさくらの前から姿を消そう。
「小狼くん？」
　突然、さくらが小首を傾けて、小狼の顔を覗き込んだ。
「どうしたの？」
　さくらが不思議そうに彼の顔を見つめる。
　久しぶりに見るその仕草が可愛くて、心配してくれているその瞳が嬉しくて。
　小狼は思わず顔をそらしてしまった。
「なんでもない」
「でも、小狼くん、今スゴく難しい顔してた」
　読心術でも使っているのだろうか。時々、小狼は彼女の察しの良さに驚き、そう思ってしまう。
　そう、出逢った頃は彼女の突飛な行動に振り回されることも多かった小狼だが、今は十分に理解している。さくらの行動は常に相手を思い遣る気持ちに裏打ちされていることを。
　誰よりもまず相手のことを第一に考えるさくら。自分も少し似ているのかもしれない。一番に考える相手が違うだけで。
　彼はここに至り、改めてさくらに気付かれないようため息を付いた。
「ちょっと、これからのことを考えてたんだ…」
「これからのこと？」
　静かに声を発する小狼の横顔を見つめ、さくらはその頬をわずかに赤らめた。
「それより大丈夫なのか？」
「な、なに？」
　少し違う方向へ考えを巡らせていた彼女は小狼の質問の意味が一度では理解できなかった。
「だから、今日は休み明けの初日だろ。もし無理してまた熱が出たら…」
　こんなにも自分を気遣ってくれる彼の気持ちは嬉しい。
　風邪で寝込んでいる間に、自分がどれほど彼の顔を見たくて、彼の声を直に聞きたくて。自分がどれほど李小狼という栄養を欲していたか。さくらは改めて自覚した。
　インフルエンザが全快して、それでもなお、大事を取り１日休ませてくれた父や兄には悪いけれど、自分にとって一番大事な元気の素、その主成分は彼なんだと認識を新たにするさくら。
「大丈夫だよ！　お医者さんから直ったよって言われて、もう１日お休みしたから。絶対、大丈夫！」
　そういってさくらは満面の笑みを浮かべる。
　この光に満ちた笑顔は嘘じゃない。小狼はようやくさくらの言葉を素直に受け入れた。
　それでもなお…。
「無茶だけはするなよ」
「もー。そんなに心配しなくても大丈夫」
　必要以上にさくらを心配してしまうのは、小狼の小狼たる由縁であろう。
　さくらは少しだけ頬を膨らませながら、口元には笑みを浮かべ、彼に釘を刺した。
「小狼くんが私のことを心配してくれるのは、スゴく嬉しいよ。
　でも、そんなに気を遣われると私の方が小狼くんのこと、心配になっちゃうから」
　最後にはにかんで見せたさくらの笑顔は、いつもよりも柔らかくて力強い笑顔だった。
　
　小狼が住むマンションにたどり着いたとき、太陽の姿は既になく、西の空にわずかな日差しの残り香があるだけだった。
　久しぶりに来ると何か新鮮だねとさくらは部屋に入り開口一番、そう言った。　家具を換えたわけでもなく、さくらのお気に入りである丸いクッションのカバーを交換したわけでもなく。いつもと何ら変わりない部屋なのだが、小狼もさくらの言葉に同意した。
　普段はごく当たり前にそこにある物たちが彼女に触られることで全く違った物に見えてくる。さくらが来てくれただけで、この部屋は色を取り戻し、輝きを放ち始める。新鮮と言うよりも小狼に言わせれば魔法と同じであった。
　彼女はそれをどこまで理解してくれているだろうか。
「お茶、私が淹れるね」
　勝手知ったる小狼の家。自前のエプロンを付けていそいそとキッチンへ向かうさくらの後ろ姿を彼は静かに見つめた。いつもなら一緒にお茶の用意をするのだが、今日は彼女の意思を尊重し、さくら１人に任せることに決めていた。
　元々、彼女が小狼宅を訪れた理由は、学校を休んでいる間に逃してしまったバレンタインの埋め合わせのため。バレンタインチョコの代わりに何かしてあげたいというさくらの強いお願いを聞き入れ、今日だけは彼女に全てを任せることにしたのだ。
「小狼くーん、座って待っててね」
　間延びした声が届く。
　言われるまでもなく小狼はリビングのソファーに腰を下ろしていた。そんな大きな声を出さなくても聞こえることを注意しようとはせず、彼は一言、
「ああ」
　とだけ返した。
　贅沢な話しだけど。
　好きな女の子が一つ屋根の下にいて、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのに、小狼は奇妙な空虚感を味わっていた。
　原因はただ一つ。
　さくらが目の前にいないこと。
　自分の視界から消えていること。
　落ち着きを払っていても、小狼の視線はリビングとキッチンを結ぶ空間に固定されている。キッチンから漏れてくる食器の擦れる音、ガスの炎の音に耳をそばだてている。
　自分の瞳の中に早くさくらが戻ってくるように。
　ほんの少しの時間でも小狼はさくらと一緒にいたいと思うようになった。
　本当に贅沢な話しだ。
　ほんの少し、足を踏み出せば、彼女の姿を見止めることが出来るし、手を握ることだって出来る。誰かが見ていたら間違いなくそうしろと言うだろう。
　けれど今の小狼には、それがためらわれた。
　しばらく逢っていなかったからその反動かもしれない。彼は自分にそう言い聞かせている。
　もしかすると……怖いのか。
　李家の次期当主として幼い頃から日々の鍛錬に明け暮れ、子供らしい遊びはほとんど知らない。感情を抑制し泣くことさえ拒否してきた。
　そんなある意味では機械のような自分が、１人の女の子にここまで固執するなんてまずあり得ないと思っていた。
　だから今、動けないのだろう。そこまで彼女に依存してしまう自分を彼女が、さくらが受け止めてくれるのか。
「小狼くーん？」
　もう一度、キッチンから届く可愛らしい声。
　いつの間にか自分の考えの中に没頭していた小狼は慌てて聞き返した。
「な、なんだー？」
「お砂糖ってもうないの？」
　砂糖？　確か買い置きがあったはずだが…。
　小狼は静かに立ち上がり、キッチンへ向かう。
　そこではさくらが緑のフタの付いたガラス容器を両手の中に収めて立っていた。ついさっきまで頭の中を駆け巡っていた考えが嘘のように彼は彼女の隣りに並ぶ。
「ほら、お砂糖の入れ物、空っぽだよ」
　さくらがその容器を小狼に見せる。中には小さな銀のスプーンが申し訳なさそうに、ちょこんと転がっている。
「ああ、確かここに買い置きがあったはず…」
　そう言って小狼は、流しの下の扉を開けた。とそこで動きが止まる。
　そう言えば…。さくらが休んだ翌日、お見舞いにとケーキを作った覚えがある。いつもの中華料理と違った慣れない作業で砂糖を使いすぎた記憶が…。
　さくらのことばかり気にしていて、買い忘れたんだ。我ながら…。
　小狼はちょっと苦笑する。
「ゴメン。今、切らしてる」
「え？　そうなの？　どうしよう…」
　さくらの顔が叱られた子供のようにうつむいてしまう。
　見ると、トレーの上は準備万端。あとはお湯が沸けばいつでも持って行ける状態に仕上げられている。彼女の意思は引っ込みそうにない。
「…砂糖じゃないけど、こんなのならあるぞ」
「ほえ？」
　小狼がそう言って流しの上にある棚から取り出したのは、黄金色の粘液が入った瓶。
「これなに？　ハチミツ？」
　彼は普段からさくらが使う物は流しの下など取り出しやすい場所へ。反対に全く触れないようなコーヒーのポットやフィルターなどは流しの上の棚にしまっている。
　ゆえにさくらがその瓶を目にするのは初めてだった。
「これはメイプルシロップって言って、サトウカエデの木の樹液。ハチミツと同じようにホットケーキなんかに使うんだ。俺はコーヒーに入れるけど」
「へぇー！」
　目を丸くして不思議そうに瓶を見つめるさくら。
「なめてみるか？」
　小狼は瓶のフタをひねり、トレーの上に置かれていたスプーンでメイプルシロップを一掬い。
「ほら」
　さくらの前に差し出した。彼女は少しためらってからそれを「あーん」という声が聞こえそうな仕草で口に含んだ。当然、スプーンを手渡したつもりだった小狼はさくらの可愛い行動に固まってしまう。
「甘い！　ハチミツみたいだけどちょっと違うね」
　さくらは満面の笑顔を見せ、未知の味の感想を表現した。
　一方、今のさくらの行動に面食らったままの小狼は、動けず頬を赤らめるばかり。彼女が「小狼くん？」と小首をかしげるまで、彼は自分の想像の中で思い人の苺のように赤い唇の残像を堪能していた。
「ああ、そうだろ？」
　我に返った小狼は努めて冷静な風を装い、簡単に解説を加える。
「ハチミツより甘みが淡泊なんだ。薫りもしつこくないし、ミネラルも多い」
「ほえー。そうなんだ」
　さくらはまじまじと新しい甘みを教えてくれた瓶の中身に見入っている。
　小狼は少し勿体ないと思ったが、今さくらが口を付けたスプーンを流しに放る。代わりに新しいスプーンと、手に持っていた瓶のフタを閉め一緒にトレーの上へ置いた。
「先にこれだけ持って行ってくれ。お湯が沸いたら持って行く」
「うん、わかった」
　素直に彼の指示に従ってトレーを持つさくら。その味がよほど気に入ったのか、トレーを運びながら嬉しそうに瓶を見つめている。
（しばらくあれに夢中になりそうだな……）
　小狼はさくらの後ろ姿を見送りながら、そう確信していた。
　程なくして、ケトルが沸騰の合図を示し、小狼はそれを持って彼女の背中を追いリビングへ急いだ。