It's Just Love

土曜日、８時２８分。
　夕食の洗い物を終えた桃矢は、労働後のコーヒーを味わっている。テレビから流れてくるのは、楽しみにしていたワールドカップ日本代表のアジア地区予選の試合。
「ゴールッ！！　日本、貴重な先制点を獲得しましたっ！！　ワールドカップへの第一歩ですっ！！」
　前半戦の２８分。
　アナウンサーが大きな声で日本代表の初ゴールをまくし立てる。
　その声を桃矢は冷静に聞いていた。
　何かおかしい。日本代表の初ゴール、もっと騒いでいいはずなのに。
　ずっと楽しみにしていた今日の試合。昼間は雪兎とどちらが勝つかで盛り上がり賭けをしたほどだ。けれど今はどこか上の空、目の前の試合に集中できない。
　いつも隣に座って一緒に観戦している藤隆は学会の準備で遅くなると連絡をよこしていたが、それが原因というわけではない。
　では何が……？
　改めて考えるまでもなく、彼が思い当たる原因は一つしかない。数分後に訪れるであろう、その出来事に対しての不安と嬉しさとちょっとの怒りで心の中は悶々としている。当然、そのような状態で試合に集中できるわけはなく、桃矢はもう一度ブラックのコーヒーを口に運んだ。
　
　さくらは夕食後、すぐに自室へ戻り、ケルベロスと共に小さなファッションショーを開いていた。
　バックから新しい服を取り出しては部屋の隅に置かれた姿見に自分と並べて洋服を映し、ケルベロスに感想を求める。それを繰り返す事既に６着目。バックは知世から借りた物で、その中に入っているのは彼女がさくらの普段着にと作った服である。
　どの服にも要所要所に、知世らしいかわいいデザインが施されている。もちろん、さくらのリクエストに応えて普段着としての機能を最優先に考え、バトルコスチュームよりは抑え目のデザインとなっていた。
　実は明日の日曜日に新しく隣町にオープンした水族館へ行こうと千春たちに誘われ、知世から洋服の入ったバックを渡されたのである。最近、カードキャプターの出番が減り、コスチュームを着てもらう事が少なくなった知世にとって、明日のイベントはまたとない撮影のチャンスに思えた事だろう。
「これはどうかな、ケロちゃん」
　７番目の服を体に当てて、さくらはその場でくるりと回ってみせる。淡い空色のスカートの先端に縫いつけられたレース模様がとても涼しげである。
「んー。それはちょっと大人しめの色やな。さくらならもっとかわいいピンクの方が似合うてると思うで」
「やっぱり、そう思う？」
　さくらは少し残念そうに姿見の自分と視線を交わす。
　最近のさくらが選ぶ服は以前の、明るく弾けた可愛らしいデザインの物に加え、清楚で淑やかなデザインの服を選ぶ事が増えている。それは知世の影響なのか、徐々に変化している大人への憧れなのかは分からないが。
「じゃぁ、やっぱりこれにしようかなぁ…」
　さくらが手にしたのは３番目に着た薄桃色と白のチェックが特徴のワンピース。ケルベロスの反応がもっとも良かった服でもある。
「やっぱりさくらには、そう言うのが一番似合うてるで」
　ケルベロスは確信したようにウンウンと肯きつつ、腕を組んだ。
　改めて手に取り、姿見に並んで映してみると、今の自分に一番しっくりくるような気がした。
「よし、これに決定！」
　嬉しそうに宣言するさくら。胸のワクワクが一段と大きくなるのを感じる。
「ところでなぁ、さくら」
「なぁにケロちゃん？」
　選から漏れた他の服を大事そうに畳みながら返事をする。
「そろそろ小僧に電話する時間とちゃうか？」
「えっ？」
　さくらは一瞬固まり、風を切る音が聞こえるくらいの勢いで時計と顔を合わせる。
　時刻は既に８時４０分を指している。
　服選びに夢中になりすっかり忘れていた。
「ほえ―！　小狼くん、怒ってるかも」
　そう、毎週土曜日の８時半は、さくらと小狼がお互いに電話で話しをしようと決めた時刻だった。しかも小狼はさくらのために香港にいる自分の部屋への直通番号を教えてくれていたのだ。
　さくらは服の片づけもそこそこに、１階の電話機目指して部屋を飛び出した。
　以前使っていた携帯電話は今、知世の手元にある。新たに自分で携帯電話を買おうと思ったが家庭の事情でそれは無理だった。「俺の方で何とかしようか」という小狼の申し出も断り、さくらは一番簡単な家の電話を使う事にしたのだ。
　ドタドタと大きな音を出して慌ただしく階段を下りてくるさくら。
（来たか…）
　桃矢は内心ほくそ笑むと、音のする方へチラッと視線を走らせ、声を発するタイミングを確認した。
「うるさいぞ、怪獣。もっと静かに歩いたらどうだ」
　いつものようにさくらをからかう。桃矢にとって妹との大事なコミュニケーションの一つ。
「もう、お兄ちゃんのイジワル。さくら、もう怪獣じゃないもん」
　さくらもいつもの事と分かっていながら、ついついやり返してしまう。だって悔しいものは悔しいのだ。何もなかったように受け流すなんて事はできない。
　さくらの変わらない反応に再び心中でほくそ笑む桃矢。
　益々からかいたくなってくる。
「怪獣じゃなかったら、もっと大人しく階段を下りろよな」
　そう言って後ろへ、さくらの声のする方へ振り返ったとき、桃矢は一瞬、ほんの一瞬だけ驚きの表情を見せた。怒りで頭が沸騰していたさくらには、それを見逃すなという方が無理だろう。
「しょうがないもん。早く小狼くんに電話したかったんだから。
　今度は気を付けるから、お兄ちゃんこそ大人しくサッカー見てなさい」
　さくらのその言葉も彼の驚きを肯定するものであった。
「…へいへい」
　ちょっと間をおいて桃矢はすぐに退散した。もちろん、そのセリフには少なからず不満をにじませつつ。ついでに言うと、あのクソガキの名前が出てきた事も気に入らなかった。
　けれど、さくらの今の顔に免じて、桃矢は素直（？）に引き下がる事にしたのだ。
（いつの間にか、母さんと同じような顔をするようになったな…）
　しんみりとさくらの表情を反すうし、写真の中で微笑んでいる母親と見比べてみる。
　桃矢の一番好きな母の顔。
　一番愛しい人に向けられる微笑み。
　恋をした女の子が顔の片隅にいつも宿している不思議な表情。
　さくらのその恋の相手を想像するとやっぱり、
（……もっとからかえば良かった）
　と桃矢は後悔した。
　やけに素直に引き下がった桃矢の後ろ姿をさくらは不思議そうに見つめる。
　けれどすぐ電話の事を思い出し、その事で頭がいっぱいになった。心臓の鼓動が早い。階段を駆け下りただけでは感じられない速いビート。
　綿菓子のような甘くてフワフワした気持ちが胸からあふれ出し、体の隅々へ流れていくようだ。電話機を前にして自分がこれから行う事を、状況を想像するだけで、さくらは全身がはにゃ〜んとなってしまう。
　小狼の姿を想い描き、その声を想像するだけでさくらの恋のタンクは満杯になろうとしていた。
　電話機の前で一度深呼吸をし、心を落ち着かせようと試みる。だが脈打つ恋の心臓は言う事を聞いてくれない。
　受話器を手にしただけで、その鼓動はいっそう速くリズムを刻み始める。心臓が二つか、普段の倍に膨れあがっているような鼓動の大きさだ。
（はぅ〜〜。心臓が飛び出そうだよぅ〜〜）
　今からこんなに大きな音だと、小狼の声を聞いたら自分はどんな事になってしまうのだろう。
「フゥ―――…」
　もう一度、深く深呼吸して受話器の上に指を添える。
　彼がそっぽを向いて赤くなっている様子を思い浮かべると、自然にさくらの指が小さく並ぶナンバーをなぞった。
　はたと気づいて自分の指先を見つめる。
　小狼の事を思い浮かべるだけで無意識に指が動く。
　自分の指が番号を覚えている。愛しい人と何かを共有できる幸福。
　まるでその指先に小狼が触れているような、小狼の想いが宿っているような気がして、さくらはなんだか無性に嬉しくなった。
　右手の指先を左手で包み込み、鼓動の鳴りやまない胸に添える。この胸のドキドキを小狼にも聞かせてあげたいけれど、それは恥ずかしいから。
　かわりにこの幸せを小狼の想いが宿った指先に聞かせてあげる。
（いつか小狼くんにも聞かせてあげるから…）
　このナンバーに載せて小狼くんに伝わりますように。
　改めて受話器を握り、最後のナンバーを押してから持ち上げる。
　コール音を聞く事３回。
「はい、李です」
　思い焦がれていた小狼の声がようやく聞けた。
　途端にさくらの心臓が一度大きく跳ね上がり、さっきまであれほど速かった鼓動が一気に静まる。息が詰まりそうになるほど胸が締め付けられた。
「こ、こんばんは…。さ、さくらです」
　声がかすれているのが分かる。
「ああ。今日はちょっと遅かったから心配してた」
　彼の澄んだ声が風のように耳から胸に向かって駆け抜けていく。
　胸の中の恋の塊が心地よい彼の優しさで撫でられ、解きほぐされるような感覚。
　緊張で聞こえなくなっていた鼓動が再びそのリズムを刻み始める。
「ごめんなさい。明日の準備をしてて、夢中になっちゃったから」
「そうか。良かった。
　何かあったんじゃないかって本気で思うところだった」
　なんだろう。清々しい小狼の声がとても熱く感じる。熱を運んでくる。
　それに伴ってまた鼓動が大きくなっていく。その幸せのドキドキがさっきの指先の事を思い起こさせた。
「ありがとう。心配してくれて。
　あの、さっきね。小狼くんに電話するとき、小狼くんの顔を思い浮かべてたら、自然に指が番号を押したんだよ。
　なんか小狼くんが私の指を持って一緒に押してくれたみたいだったの」
「そ、それは…」
　電話の向こうで小狼が慌てている様子が分かる。
　もしかするとさっき思い浮かべた赤い顔をしているのかもしれない。
「すごいドキドキしてて、夢中で小狼くんに電話しなきゃって思って。
　そしたら指が自然に。不思議だね」
「ああ、ありがとう。
　俺も今、さくらと電話しててすごいドキドキしてる」
「ホント！？　小狼くんもなんだ」
　ドキドキしているのが自分だけじゃないと分かりさくらの緊張が少しゆるまった。
　そして、電話をかける前のさくらからは考えられない大胆な欲求が頭をもたげる。
「……ねぇ、今度小狼くんのドキドキ聞かせて」
「えっ！？　なん、なんで？」
　突拍子もないさくらのおねだりが小狼の声を大きくさせた。
「私と小狼くんのドキドキ、どっちが早いか聞いてみたいんだもん」
　それは半分ホントで、半分ウソ。
　いつも冷静沈着な小狼が今感じている胸の鼓動とはどんなものか、さくらは聞いてみたくて仕方がなかった。
　それと。
　自分のドキドキだけでこんなに心地よくて幸せなのに、２人のドキドキが合わさったらどんな事になるのか。恥ずかしさよりも好奇心の方が勝ってしまうさくらだった。
「…電話じゃダメか？」
「電話だと分かりにくいもん。
　今度逢ったときにね、……私の、私のも聞かせてあげるから」
　消え入りそうな声で恥ずかしさをこらえつつ、さくらはお願いした。
「なっあっ！！」
　小狼の驚きの声が１オクターブ高くなった。
「？　どうしたの小狼くん？」
　小狼の反応はさくらの予想外だった。
　彼が今、どんな想像をしてしまったのか、さくらは知る由もない。
　小狼がさくらの鼓動を聞くために、彼女の胸に耳を当てる事を想像し、その胸のふくらみにまで思いが至ってしまった事を。
「何でもない。
　今度会うときまでそのセリフ、絶対誰にも言うなよ」
「言わないよ。だって小狼くんのだもん。聞いたみたいの」
「いや、そうじゃなくて…」
　思わず小狼は自分の眉間を押さえた。
「？？
　じゃ、今度逢ったとき、小狼くんのドキドキ聞かせてね、絶対。約束だよ！」
「ああ、わかった。
　それより、明日の準備って、明日、どこか行くのか？」
「うん、明日ね、千春ちゃんたちと一緒に…」
　話題がそれた事でようやく小狼はホッとした。
　知世曰く、あのふんわりした所がさくららしくて良いのだが、それがかえって小狼の一番の心配事でもあった。
「そしたらね。知世ちゃんが大きなバックを持ってきてくれて。私の普段着にってお洋服くれたの。前みたいなのじゃなくて…」
「大道寺も相変わらずだなぁ…。
　たぶん、明日はおまえの事、撮りまくるだろうな」
「ほぇ〜〜。そんなの恥ずかしいよ」
　
　それからお互いの近況報告を含めて２人はひとしきり会話を楽しんだ。愛しい人との話しはついつい時間を忘れてしまうようで、桃矢に怒られるまで、たっぷり２時間もの間、話題がとぎれる事はなかった。
「それじゃ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ。明日気を付けて行ってこいよ」
「ありがとう」
　そう言ってさくらはようやく受話器を置いた。
　最初、あれだけ緊張していた気持ちはどこかに消え去り、小狼の清々しい声だけがさくらの心で何度も反響していた。
　心地よい会話の余韻を味わったあと、さくらはもう一度右手の指先を左手で包み込み、胸に添えた。
　小狼を求める鼓動は今も変わらず脈打っている。
　今度、逢えるのがいつかは分からないが、それまではこのドキドキが自分を支えてくれる事をさくらは実感した。
　そして―――。
　桃矢にお休みを言い、さくらは途中だった明日の準備を済ませた。
　ケルベロスにもお休みを言い、最後に“しゃおらん”にもお休みを言ってから床についた。
　天気予報によると明日は晴れ。楽しい日曜日になりそうだった。
　明日のお出かけの様子と、小狼と逢える日を想い描きながらさくらは眠りについた。