兄弟 -キョウダイ- の刻印

　夜の闇をくり抜いたようなような青白い月。
　他の星々は瞬きすらおぼろげ。
「……満月だったなそう言えば、今夜は……」
　誰に聞かせるとは無しに言葉を声に載せてみた。
　白く絡まり合う余韻。
　応えを持たないそれは、夜の闇に虚しく吸い込まれていった。
　ガラス戸に映る自分の顔、そして上半身。青白く浮かぶ姿は、その言葉とどこか似ていて。
　ふと視線を感じ振り返る。
　ベッドの上の弟が俺を見ていた。
「……おはようってまだ早すぎるか……」
　目を擦り壁に張り付いたデジタル表示を見上げる。
　青白い月光を反射する横顔。唇、顎、鎖骨、胸部、腹部……。
「兄貴がこんなに早起きとは知らなかったよ」
　無邪気に笑いかけてくれるその無垢な微笑みに。
　――俺は昨夜、何をした！
　――そのひび割れた唇に俺は何を！
　心を苛む己への激しい叱責。
　だが、それを弟に悟られるわけにはいかない。
　努めて抑揚のない声で、
「ああ……」
　それだけを言い返すのが精一杯だった。もう一度ガラス戸の自分と向き合う。
　見つめれば瞳が、振り返れば心が俺を責め立てる。
　――昨夜俺は、最愛の弟に何をした！
　もう一度、自分に問う。答えはなく、怒りだけが心の中で渦巻いた。
「兄貴、そんな格好で寒くないか？」
　まだ雪を見ていない一月。新聞配達員もまだ眠っているこの時間は、空気が肌を刺す。
　いや、むしろ火照ってしまった心と身体を冷やすために。自分自身を戒めるために、この寒さはちょうど良いのかもしれない。
　ベッドの軋むわずかな音と、衣擦れの音が聞こえた。
　振り返らなくても分かる。弟が俺の方へ向かって歩いてくる様子がガラス戸に映り込んでいる。被った毛布の間から覗く両脚が妙に色っぽい。
　月光は万物に艶(いろ)を与えるのだろうか。
　すぐ背後で気配がしても俺は振り返らない。振り返れない。
　それでもなお剛は横から俺の顔を見上げた。
「……寒いでしょ？
　もうちょっと一緒にはいっててよ、この毛布」
　そう言って弟は両手を広げ俺を誘う。その中はそうする事が当たり前のように全裸だ。第二次性徴が遅れているらしい剛の身体は女のように滑(すべ)らか。線が細く、華奢なコイツが女装をすれば、その辺の女よりもよっぽどキレイだろう。間違いない。顔だって化粧映えしそうな造詣をしているし。
　ふと赤い印に目が留まる。その下腹部から太股にかけてポツンポツンと。
　それは俺の、俺たちの罪の証し。
「……この毛布……、オレと兄貴のニオイがすんのに、オレのだけなんだ温もりは。
　……寒すぎんだ、オレだけで温めるのは。兄貴も一緒に……」
　悲しげな瞳が俺の瞳を射る。
　肌を刺すような部屋の空気。ゆっくりと吐き出す息がほんのわずかに白くなる。弟の子供のような性器が縮み上がっている。
「……ああ……」
　俺はそれだけを何とか声に出して、唯一身に着けていたスウェットも脱いだ。自分の欲望が猛々しく反り返っている。
　弟の顔が紅葉を散らしたように赤らむ。そして俯く。
　スウェットの上からでもそれは想像できたろうに。心が黒くなっていく。罪悪感を覆っていくサディスティックな欲望。
　軽くその形をなぞり、指の腹で頤(おとがい)を持ち上げる。
　月光に浮かび上がる陰影。下唇を少しだけ開かせる。乾きかけの柔らかさ。
　剛の瞳は一点の曇りもなく濡れていた。蕩けようとしていた。
　なぜだろう、こんなにも好きなはずの弟に怒りが沸き上がってくる。
　血の繋がった実の弟を弄び、まさぐり、欲望の赴くまま抱いた。それを止められなかった自分への怒りと、それをやってしまった後悔が俺の中で渦巻いているというのに。
　何で目の前の、確かに温もりを感じる少年はこんなに真っ直ぐな瞳で俺を見られるのか。
「……ハァ……」
　割れた唇から漏れる艶めかしい吐息。それは白く解けるより早く俺の鼻腔を満たす。
　何かを期待し、それが得られないのか、剛の瞳がわずかに歪んだ。
　そう、俺は、弟にも俺と同じ心境になって貰いたいんだ。
　同じ瞳をして欲しいんだ。
　堕ちるところまで堕ちて、一緒に壊れて、あの窓ガラスに映っていた男と同じ顔をさせたいんだ。
　分かっている。
　それは狂った愛が、時に起こす破壊衝動。俺の中で疼く原始的な欲求。
　俺は両手で弟の顔を挟み込み、真っ直ぐ向き合った。瞳を逸らさせない。
　剛の顔が益々赤らむ。俺を虜にする方法を知っているように。
「……どうしてだ。どうしてお前はそう……」
　声が詰まる。喉が詰まる。
　――なぜその瞳は揺らめかない？
「……後ろめたさとかは…ない、のか……？」
　そんなはずはないのに、まるで俺だけの一方通行の愛情のようで。苦しさも入り交じり始める心。
　弟は優しく微笑む。毛布を持ったままの両手で、その表情と同じように俺の背中を包み込む。
「……そんな事ない。あるわけない、だろ……」
　蕩けていた瞳に力を込めて、俺を見つめる。あの真っ直ぐな瞳で。
「オレが兄貴を好きな、この気持ちは本物なんだ。
　周りの事なんて気にしないで……」
　無理矢理俺の両手を振り解き、首に抱きついてくる。
　頬と頬を寄せ、左耳へ直接囁きかけてきた。
「もっと素直になってよ……、兄貴……」
　鼓膜を通し、脳へダイレクトに響き渡る息遣いはこの上もなく甘美に聞こえた。
　コイツは昔からこうだった。
　無邪気で、欲求に忠実で。本人は気が付いていないようだが、誘惑上手。
　でも自ら進んで、欲望を貪ろうとはしない。
　思えば、数えるほどしか結んでいないキスも、全て俺からだ。
　彷徨っていた両手を、そっと弟の腰に回す。つま先立ちの体重を支えるように。
　俺の大きすぎる欲望と、剛の慎ましやかな欲望が擦れ合った。
　背筋を駆け上る官能。流されるわけにはいかない、これ以上。
「でも、俺たちは終わっちまうぞ……。これ以上――」
　関係を深めすぎると離れられなくなる。
　コイツの彼女だって俺たちの事を知らないのに。
「オレだって絶対、大丈夫とは言い切れない。
　けど、オレたちはまだ始まってもいないんだ。友情か、恋愛かも分からないこの気持ち……」
　真っ直ぐに、そして真剣に身体を貫く弟の瞳。
「若さ故の過ちとか、青いからだとか、色々言われるかもしれないけどオレは！
　……今のこの気持ちが大事なんだ……」
「………………」
　俺は馬鹿か？　一方通行の愛情だと。悲劇のヒロインじゃないんだ。
　弟は俺よりもずっと悩んでいる。得体の知れない感情を理解しようと必至なんだ。俺の事だけを真っ直ぐに思って。
「……笑われるかもしれないけど、オレ……」
　か細くなっていく魅惑的なアルト。
　瞳を逸らさないでくれ。俯かないでくれ。お前が迷ってしまったら俺は。
「オレ、この気持ち、いや青さだけは無くしたくないんだ！　…絶対に」
　淀みも陰りもなく、欲望も、妥協さえもない真摯な瞳がオレの瞳を射抜く。
　ああそうだ。コイツはいつでも真っ直ぐなんだ。誘惑上手なんかじゃない。真っ直ぐで純粋だから、人を惹き付けるし、俺も魅入られた。
「……分かった」
「……ア……」
　弟を毛布ごと両手で抱え上げる。結構な重さだが、持てなくはない。
　巻き付いた布から覗く肩口は、魅惑的なカーブを描く。
「後悔するなよ」
「……してもいい。けど悔いは残したくない」
　戯けたように微笑むと、剛は首に両手を絡めてきた。
　コイツは分かっているのだろうか。
　“悔いを残したくない”――その真っ直ぐな純粋さが、俺以外をもいずれ惹き付けていく事を。女は特に放っては置かないだろう。
　顔だけじゃなく、心まで浮気性の父親と似るなんて。
　いずれ訪れるであろう俺たちの未来の姿を、今の両親と重ねてしまう。
　いや嘆くのは後でいい。
　不安は弟の純粋さが打ち消してくれる。足らないところは埋め合えばいい。
　弟のいう青いままで今は居よう。
　剛をベッドに横たえ、巻き付いていた毛布をかけやると、俺はその横に潜り込む。
　弟の物欲しそうな瞳が見上げている。
　素肌を通して伝わる熱はまだ俺を休ませてくれそうにない。
　前言撤回。
　やっぱり、コイツは誘惑上手だ。
　月はまだ闇夜に浮かんでいた。