姉弟 -キョウダイ- の刻印

　部活が早く終わった帰り道、私はふと不思議な場面に出くわした。 「あれは…、剣路くん？」
　目にとまったのは本屋の前にたたずむ剣路くん。彼とは小学生の頃からの知り合いで、学年が二コ下だから本当の弟のように思い可愛がってるの。でもスゴイ生意気なのよね。
　そして剣路くんのお兄さんがぢつは私の彼氏だったりするわけ。
　だから剣路くんの相手をしてれば兄弟だけが知る“彼”の話しも聞けるし、私の優しいお姉さんぶりを“彼”へ間接的にアピールできるわけで一石二鳥。恋する乙女は常にしたたかじゃないとね。
　…ってそういう話しはおいといて。
　何であの光景が不思議かって言うと。
　剣路くんは“彼”と違って活発な男の子で、暇さえあれば、バスケだ、サッカーだって飛び回ってる。特に剣道は私よりも強いんじゃないかって思えるほど。仮にも私の実家は剣道道場。その上、部で主将の私が一太刀もあびせられなかったんだから、その実力は相当なはず。もっとも部活の上下関係が面倒とか言って、入部早々に辞めちゃったから実力のほどはわからないけど。
　だからほら、そんな剣路くんが本屋の前にじっとたたずんでいるのはとっても不思議に思えるわけ。本人に言ったら怒られそうだけどね。
　私は剣路くんに気付かれないよう、ゆっくり近づきながらその様子を観察してみる。
　彼が立ち止まっているのは今時珍しい紙の本を扱ってる本屋さん。ほとんどの本がＤＤブックになった今では、紙の本を売ってる本屋さんは少ない。
　よっぽど本好きでないと紙の本なんて買わないから、余計にその本屋さんと剣路くんの取り合わせがヘンに思えたのかもしれない。
　声が掛けられるくらいになっても剣路くんはまだ私に気付かない。
「本当、珍しいわね」
　そんなに本が好きなのかな。
　ふと学校の休み時間に窓辺で文庫本を読む彼の姿を想像してみる。
　柔らかい午後の光が差し込む窓辺の特等席。
　そこへ座り栗色の髪を風にたゆらせる美少年。
　その真摯な瞳には本の中の空想世界へと馳せる思いがあふれていた……。
　……似合うかもしれない。
　元々兄弟揃って女顔だし、物憂げな雰囲気も結構ハマってるかも。
　おっと想像ストップ。
　ほとんど手が届くほど近づいても、まぁだ私に気付かない剣路くん。
　ちょっと興味をそそられるじゃない、そんなに彼を夢中にさせる本ってどんなのか……。
　剣路くんに悟らないよう背後に回って近づいていく。
　おやおや、背中がガラ空きですよ…。
　そっと彼の肩越しに、その視線を追いかける。
　果たしてその先には…。
「ゲッ！」
　彼の視線がとらえていたのは、いかがわしい文字が躍る写真集らしき本が並んでいた。
「エッ、エロ本っ！？」
「！　ウワアァァッ！　薫っ！」
　私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
　次に自分のセリフとその声で横へ飛び退った剣路くんに驚いた。
　それは剣路くんも同様らしく、耳まで真っ赤になって私を見つめてる。
「なんだよ！　驚かすなよ薫！」
「さんをつけなさいよ、さんを。
　大体、そんなに驚くこともないでしょ？」
　わざと大げさに手を振って私と彼の距離を測るような仕草をする。
　そのことに気付くと剣路くんはばつが悪そうに目を伏せてしまった。それからそっぽを向いてボソボソと弁解する。もちろん、顔は真っ赤なまま。
「そりゃ驚くだろ、イキナリしゃべられたら耳元で」
　よほどショックだったのか、言い方がしどろもどろ。いつもの剣路くんらしくない。
「気付くでしょ、あの距離ならフツー」
　私にも彼の動揺が伝染したのか、思い通りにしゃべれない。頭の中は冷静なんだけど、言葉が思った通りの順番に流れていかないの。
「それともご執心で気付かなかったの？　その本に」
　もう文法、無茶苦茶。しかも嫌味っぽいし。
　ああもう！　全部あの本が悪いのよ！　あの本が！
「何でそんなに怒ってんだ？
　…俺だって健全な高校生だ。男だ。興味あって当然だろ？」
　うん、わかる。剣路くんの言ってることはよくわかる。私もあなたのお兄さんから色々聞かされました。その、男の子の事情ってヤツを。
　確かにわかるんだけど……。
　何かイヤなのよ。
「健全なのはわかるわよ確かに。でも…」
「でも、何だ？
　そんな薫の想像してる本じゃないぞ、この本は。純粋に芸術として……」
　何か微妙に開き直ってない？　剣路くん。
　剣路くんの言う通り、その本は下世話な物じゃない、エロ本じゃないって十分わかってる。そもそも高額で貴重な資源を割いてまで出版社がそんな本を作るとは思えない。数は出ないし、物が悪ければ非難の対象にもなるし。
　ここはお姉さんとして心を広く、寛大な所を見せたいんだけど。
　何処かで“それ”を許せない“自分”がいる。
　その“自分”が頭で考えてるよりも先にポンポン、セリフをしゃべっちゃって収拾がつかない。
「何？　開き直るの？
　そんな理屈並べたって、目的が同じなら変わんないじゃない、所詮」
　ちょっと待って。一端ストップ。私が言いたいのはそういうことじゃなくて。今の剣路くんを見てると益々もう一人の自分が加速していく。
　真っ赤になって弁解する彼を見れば見るほど止まらない。
「薫だって同じだろ？　そういう風に言うなら。
　目的が想像できてんだったら、頭ん中同じじゃん」
「そうじゃないわよ！　剣路くんがそう言ったからそっちに想像が広がったんでしょ」
「違わないって！
　薫だって兄貴とよろしくやってるから、そっちに想像が広がんだろ！」
　一瞬、考えてる私と。
　しゃべってる私と。
　想像してる私と。
　ともかく色んな私が一瞬固まった。
　何となく私の暴走の原因がつかめた……。
　私はまだ“彼”と“そういう関係”にまで至ってなくて。
　一年以上も付き合ってるのに“そういう関係”に発展しないことに焦ってて。
　同じくらい付き合ってる操ちゃんは彼氏と“そういう関係”になってて。
　“彼”と“そういう関係”になってるだろうと勝手に剣路くんが想像してるのがイヤで。
　剣路くんには、いつまでも優しい清らかなお姉さんと思われていたい自分がいて。
　でも剣路くんには、“彼”と“そういう関係”になった時、理解してもらいたくって。
　つまり、私が“彼”との関係に焦っていただけだったんだ……。
　頭で理解してても“彼”を、剣路くんも含めて男の子の心理をしっかり認識できてなかったんだ。
　私もまだまだ未熟ね。
「ふ―――。お姉さん失格ね」
「えっ？」
　剣路くんは意表をつかれた表情で私を真っ直ぐ見つめてる。
　そりゃそうだよね。
　自分で勝手に怒ってまくし立てて、しかも勝手に悟って自己完結しちゃって…。
　これって空回りよりもほとんど独り相撲？
　うわー、バカ丸出しだわ。
　ここはちゃんと謝っておかないと。
「剣路くん、ゴメンなさい。私が未熟者でした」
　私は、自分のおでこを彼のつま先をくっつけるくらいのつもりで頭を下げた。
　そして重力に負けて垂れ下がった一部の髪を背中に払うよう、頭を上げる。
　合わせた目線の先には、まだ事態が飲み込めていない剣路くんの顔がある。
　やっぱり兄弟だと似てるわねぇ。
　そのハトが豆鉄砲食らったような間の抜けた顔。
「私、焦っちゃてたみたい。弟だって思ってた剣路くんが急に大人になったような気がして…」
　剣路くんの瞳を見つめて、けど顔中が熱くなって目線をそらしたくなるのを我慢しながら、一言一言を声に乗せる。
「上手く言えないんだけど、剣路くんが男だって意識させられた瞬間ビックリしちゃって」
　剣路くんの顔がどんどん赤くなっていく。真っさらな紙に赤いインクが染み込むように。リンゴ…よりトマトに近い。私の顔も多分同じなんだろうなぁ。
「だからその…」
　これ以上はもう、言ってるこっちの方が恥ずかしい。
　だってこれ以上言うと、剣路くんが“男”だって意識する以上に私が“女”だって意識させられちゃうから。
　私はまだ…
　耐えられなくなって視線を落とした。剣路くんのつま先が目で見るより近くに感じられる。
「…………」
「…………」
　お互いに沈黙。
　剣路くんは私のこと、どう思ったんだろう、今の聞いて。
　ヘンなヤツ？　バカなヤツ？　それともイヤなヤツ？　自分を弟って見下してたから。
「フ―――。そっか、弟か」
　唐突に剣路くんがしゃべり出した。
　顔を上げて思わず彼の口元に見入る。一言も聞き逃さないように。
「そっか。薫にとって俺は大事な弟か」
　やっぱり傷つけちゃったかな。
「安心した。俺はてっきり嫌われてるのかと思ったよ薫に。世話ばっかかかる近所のバカガキみたいによ」
　ん？　何か方向が予想と違う……。
「何かって言うとすぐに注意するし、薫は。酷いときゃ手加減無しだもんな。結構痛ぇんだぞ、おまえの手刀」
　ひょっとして相当嫌われてた？　私。
「そんなに力入れてないんだけど…」
「マジで？　じゃぁ本当だとどれくらい痛ぇんだ？
　あんなしょっちゅう叩かれたんじゃ、俺ぐらい頑丈じゃねぇとすーぐ参っちゃうんじゃねぇの？」
　剣路くんがいつもの笑顔を浮かべた。
　不適な小憎たらしいガキ大将の笑顔。
　どうやら剣路くんの中で私はかなり酷いヤツだと格付けされていたらしい。全く誰のために世話焼いたと思ってんのよ。
「何よ。私、そんな酷いヤツだったの？」
「ああ。
　でも今ので薫は良いヤツの仲間入りだ。俺を男だって認めてくれたんだし」
　一瞬ドキリとした。自分を男だって言った剣路くんの穏やかな表情は“彼”とよく似ていた。
　男の子ってこうやって成長してくんだろうなぁ。
「ありがと。
　それじゃぁ、“男”になったお祝いにその本、買ってあげようか？」
「えっ？」
　途端に剣路くんの顔が真っ赤になる。うん、まだまだ反応が可愛い。そう簡単に先越されてなるモンですか。
「いいよ薫、何か悪いし、それに恥ずかしいし」
「遠慮しなくて良いのよ。そんなに高いモンじゃないでしょ」
「だからいいって」
　必死に断ろうとする剣路くん。
　こういう反応って面白いわ。やっぱり私、イヤなヤツかも。
　でも今までよりは仲良くなれたみたいだし、お姉さんとしても認めてくれたのかな。
　結局、私が押し切る形で剣路くんにあの本を買ってあげた。
　その後、剣路くんがどう変わったか。“彼”に聞いてみようかな。