兄妹 -キョウダイ- の刻印

　俺は風呂を出てすぐに、台所へ向かい、そこにある冷蔵庫の中を覗き込んだ。
　まだ乾ききっていない肌に冷気が心地良い。
　いくつか魅了される飲み物の中から、俺が選んだのは相も変わらず麦茶。それをお気に入りの青いグラスになみなみと注いで一気に飲み干す。
「フーッ！」
　いくら温度完備された室内でも、やっぱりこう言う所で涼しさを感じてしまうのは、今も昔も人間にとって変わりない。
　なーんて、ちょっと理屈っぽく思ったりして。
「ほら、リク。そんなとこにずっと立ってないで。野菜が出せないでしょう？」
　後ろから少し迷惑そうな母親の声が聞こえた。
「あ、ゴメン」
　俺が横へ避けると、母親は冷蔵庫の中からいくつかの野菜を取り出した。
　夕食時、他の家と違って、うちは母が直接料理を作る。普通は調理万能の家政ロボットに作らせるらしいけど、料理が趣味の母は全てを自分で作る。もちろん時間がないときは、家政ロボットに任せることもある。けれど味付けだけは絶対に自分でやるのだ。
「フンフーン♪　あ、リク。そっち行く時、それ持ってってね」
　母は大皿に盛りつけられたサラダを指し示した。
　鼻歌交じりに食材へ向かう母を、俺は少し誇らしく思った。
　そう言えば、ああいう金属製の包丁を使ってる家庭も、学校のクラスでうちだけだったなぁ。親父からプレゼントされたときにスンゴク喜んでたっけ。
　当の親父はリビングでニュースを見ている。
　母の趣味に対してちょっとうるさい親父だけど、実は母の料理をするときの後ろ姿が好きらしい。以前に、俺が声を掛けるまで、ずーっとそれを見てたことがあった。俺に声を掛けられた親父は、イタズラが見つかった子供のようにビックリして、すぐにリビングへ戻っていった。そんなカワイイ面もある。
　俺はもう一杯、麦茶をグラスに注いで、食卓へ向かう。もちろん、母に頼まれた愛情たっぷりの手料理も忘れずに持っていく。
　と、キッチンを出ようとしたときにふと思い出した。
「あ、そうそう。
　さっきメイからメールが届いてたよ」
「あら、そう！　それじゃ夕食が済んだらみんなで見ましょうか」
　妹のメイミは高校の寮に入っている。通学距離の関係上、その方が便利だからだ。両親の説得には俺も一役買わされたが、その代わりの条件として、週に一度ビデオメールを送ってくるように約束した。最初は渋っていたメイミだけど、最近は楽しいことが多いのか、送ってくるたびに記録時間が増えていた。
　
　夕食後、食器の後片づけが終わった母はそそくさとテレビの真ん前を陣取った。テレビを見るときの特等席だ。早く早くとせがむ母に親父が合いの手を入れる様子を見ながら、俺は送られてきたメールを再生した。
「やっほーっ！　みんな元気かなーっ？　メイミからのお約束定期便ですよーっ！」
　元気な妹の顔が画面いっぱいに映し出された。明るく脳天気なのは母親譲り。頑固で一途な所は父親譲り。良くも悪くも妹以上に一緒にいて楽しい女の子を俺は知らない。
　だから自然と俺の中では妹が誰よりも大切に思えていた。
“この笑顔を守ってやりたい…”
　素直にそう思う。
　これが恋心と言えるかどうかはわからない。誰かに相談しようと思ったがこの気持ちはどう表現すればいいのか、言葉を見つけられないのが正直な話し。
　“妹を心配する兄の気持ち”では言葉が足りないし、“メイミを一人の女性として好き”だと行き過ぎてしまう。そう言う微妙な気持ちだ。
　全くこのいい加減さは誰に似たんだか。
　最初、寮内のメイミの部屋を映していた画面は、次にキャンパス、食堂へ切り替わっていく。合間合間に録画された、友達と笑いあったりからかわれて怒っているメイミの姿。俺にとってこれほどの至福は他になかった。
「楽しそうだな…」
「フフ♪　そうね」
　母親は嬉しそうに答える。恐らく自分のその頃を重ねているのだろう。横目に表情を覗くと若々しい微笑みが見える。振り返れば父親も滅多に見せない表情をしていた。
　画面が切り替わり、再び寮のメイミの部屋が映し出される。
　登場したメイミは室内着と思われる軽装に変わっていた。
「今回のメールはこれで終わりだけど、最後に一つ、大事なお話があります」
　妹らしくない改まった口調に俺の顔がこわばった。
　どんな事を言われるのか、焦った脳が最悪のシナリオを思考から追い出そうとフル回転を始める。
　一方、画面にはカメラを操っていたと思われる女の子が登場した。カメラは自動制御に変えたらしい。
　確か以前、メールで紹介されたルームメイトの…。名前はえーと…。
「みんなちゃんと憶えてるかな？　ルームメイトのティシモちゃんでーす！」
　メイミが大きな声で紹介すると、その娘は少し照れた様子で軽く会釈した。
「こんにちは」
　そうそう、ティシモちゃん。
　彼女は妹と正反対の落ち着いた雰囲気を持つ女の子で、占いが趣味だとメイミから聞いた憶えがある。
「ぢつは今回、ティシモちゃんから重大発表があるのです」
　得意げにふんぞり返り、してやったりの表情で俺を直視するメイミ。
「リクにぃ、ティーちゃんの言葉、ちゃんと聞きなよ」
　突然、俺は名前を呼ばれて焦った。
　両親も慌てた様子で同時にこちらへ向き直り、何事かと目で問いかけてくる。
　俺もわけがわからないことを目で訴え返す。
「ティーちゃん、ガンバ！」
「ハイ…。
　イキナリで驚くかもしれませんが…。
　リクトさん、私はあなたが好きです！　付き合ってください！」
　彼女は耳まで真っ赤に染めながら頭を下げた。
　一瞬、何を言われたのかわからず、全身が金縛りに掛かったように固まってしまう。
「メイちゃんのメールを一緒に見てて、何となく気になっていて。
　そのうち、メイちゃんのメールを楽しみに、と言うよりあなたに会える事を楽しみにしている自分に気が付きました。
　お友達からでも良いのでよろしくお願いします」
　ティーちゃんはそれだけ告げると固まったままの俺を残して、画面の外へ消えた。
「えへへへ……。どう？　驚いたリクにぃ」
　再び、メイミの顔が画面いっぱいに映り、悪戯っ子のようにテヘへへと頭をかいている。
「正直な話し、ティーちゃんからリクにぃに告白したいって言われた時、メイはビックリしたよ」
　俺もビックリした。
　女の子からこんな形で告白されるなんて夢にも思わなかったもんなぁ。
「”俺の彼女になるヤツなんていない“なんてリクにぃ言ってたけど、見る人が見ればやっぱり魅力的なんだな。うん。
　だってメイはリクにぃの事、格好良いって思ってるし、メイの自慢でもあるんだよ。知ってた？」
　俺の心中を知ってか知らずか、メイミは無邪気に言ってのける。ちょっぴり皮肉に聞こえなくもないけど、好きな妹にこう言われるのはスゴク嬉しい。
　だが、この後のメイミのセリフはその嬉しさを飛び越え、俺を驚愕させる物だった。
「もし誰も恋人候補が居なかったら、メイがリクにぃのお嫁さんになりたいなぁって思ってたし」
「…………」
　言葉がない。
　嬉しさよりも驚きが上回り、あれほど高速に動いていた頭の中が真っ白になる。メイミが冗談半分でこんな事を言わないのはわかっているから、余計に俺の意識は遠くへ遠くへ飛んでいく。
「なーんてね、えへへへ…。
　そう！　ティーちゃんとリクにぃならお似合いだから、メイミは断固応援するよ、うん！」
　照れ隠しにそんな事を言うメイミの笑顔は、以前に一度だけ見た事のある乾いた物だった。
　多分、俺だけが知っている憂いを帯びた笑顔。
「それじゃリクにぃ。返信メールでちゃんとティーちゃんに返事してよ。
　ヘンなメール寄こしたら許さないからね、メイのしんゆーなんだから」
　腰に両手を当てて見下ろしながら、そう言う様子は俺を叱っているかのようだ。
「それじゃまたね
　パパもママも身体には気を付けて。
　リクにぃもね。メール待ってるよ
　以上、メイちゃんからのお約束定期便でした！　バイバイ！」
　そこで画面は途切れた。
　真っ青になった画面には送信年月日と記録時間が無機質な文字が表示され、同じく無機質な音声ガイドがそれを読み上げる。記録時間は前よりも更に十分近く延びていた。
　静けさが戻ると同時に、母親は俺の方を振り返り、一言。
「やったわね。頑張りなさい、リク」
　それだけ言うとゆっくり台所へ消えた。
　父親はポンポンと俺の肩を二度叩いた後、静かに立ち上がり、
「風呂でも入ってくるか」
　と呟きながらリビングを出ていった。
　後に残された俺は、今のメールのバックアップをディスクに取り、それをなぜかいつもより丁寧にケースへしまう。
　この時、ようやく自分の気持ちが兄の領域からほんの少しはみ出ている事に気が付いた。
　返信メールは多分、出すまでにたっぷり一週間を要するだろう。
　その内容に頭を痛めるのは、想像に難くなかった。