春の使い、桜色の時間。

　ハラリ――。
　
　ハラリ――。
　
　桜色の花弁が春風に任せて優美に舞い踊りながら、連れ添って歩く二人の肩先を掠めていく。
　桜並木の花々を透過して降り注ぐ陽(ひ)の光りは麗らかな春の陽気も手伝って、より一層柔らかく世界を包んでいる。
　歩を進めるさくらはその柔らかい日差しが、朝の慌ただしさを解かしてくれるのを待つように、ゆっくりとした動作。小狼もそれに倣い、今朝はもう何度目かとなる深呼吸をした。
　学校へと向かう途中にある大きな池を擁した公園。その水辺を囲むように敷設された遊歩道の両側には、多種多様な植物が植えられている。季節に合わせて次々と色を変えていくその花々の中で、今はちょうど桜が七分咲きといった所だ。週末には花見をする人々で賑わうだろう。
　「もうすぐ満開だね」
　「そうだな」
　さくらは桜を見上げながら嬉しそうに微笑む。
　小狼もつられて桜を見上げ、少女の言葉に納得する。
　朝の忙しい登校時間を二人はいつもこうしてゆっくりと歩んでいる。
　小学生の頃とは違った忙しさに日々追われる中で、二人きりの時間を少しでも多く作りたいとさくらが提案したのは、敢えて遠回りをするこの朝の通学路だった。この遊歩道にしても、本来のルートからは外れていて登校には五分ほど多くの時間を要するのだが、それでも二人はちょっとだけ早起きをして、二人きりで過ごせるこの時間を満喫しながら通学していた。
　
　ハラリ――。
　
　ハラリ――。
　
　また一枚、そしてもう一枚と桜色の花弁が舞い降りてくる。
　そのうちの一枚が、さくらの視線を掠め、胸の前にかざした手の平にゆっくりと収まった。
　しっとり柔らかい花弁の感触は、さくらの表情を同じ印象のものに変える。
　「ほら。キレイだよ、小狼くん」
　手を掲げてそれを見せるさくら。
　「あ、ああ」
　一瞬、口を突いて出そうになったセリフをすんでの所で呑み込み、微笑みを返す小狼。
　それから頬を染めて、頭上の桜の花々を見上げ、
　「キレイだな――……」
　独り言のようにそう呟いた。
　まだその言葉を真っ直ぐぶつけられるほど、彼のシャイな性格は変わっていない。
　「…………うん、キレイ。だよね」
　小狼につられてさくらも桜の花々を見上げ、答えた。
　春になると咲き誇る自分と同じ名前の花。いや正確には自分の名前があの花と同じなのだ。
　花々の隙間を縫って降り注ぐ春の日差しに、さくらは写真の中だけでしか知らない母の姿を思い描く。いつも柔和な笑みを浮かべて天国から見守ってくれているだろう母親に、
　（…………ありがとう――――…………）
　あの綺麗な花と同じ名前を自分に付けてくれた母親に、さくらは改めて感謝した。
　頭上の桜色の空を越えて、天国にいる母親に届くよう、真っ直ぐな瞳で。
　
　小狼は、チラリとそんな彼女の表情を盗み見て、想いを馳せる。
　さくらはまさに桜の花のような少女だ。
　華美な煌びやかさは持たず、桜の花の色のようにふんわりと柔らかい魅力を持っている。堂々と咲き誇りながら決して奢らず周囲に明るい空気を振りまいている。ともすれば花見で愛でられる花のように、誰からも愛されている存在。
　そんな彼女を独占している自分はどれほど幸せなのか。改めて噛みしめる。
　何に、そして誰に感謝していいか分からないが、小狼は彼女を生み、育て、見守ってきてくれた全てのものに感謝した。
　（ありがとう。そしてこれからは――……）
　心の中で「これからは俺がさくらを守ります」と続け、見上げたままだった視線を彼女へ戻した。
　そこには待ってましたと言わんばかりに、満面の笑みを浮かべた彼女がいて。
　
　「ねぇ！　今度の日曜日、お花見しようよ！」
　予想通りのセリフを受けて、少年も笑みを零す。
　「ああ。着いたら聞いてみよう。みんなに」
　「うん！」
　顔を幸せで一杯にして喜ぶさくらを見て、小狼の頬はまた自然と綻ぶ。
　「……あ、そうだ。この間の小狼くんからの誕生日プレゼント。あのコも一緒に連れて行ってもいいかな？」
　「え！？」
　さくらの笑顔に浸っていたのもつかの間。彼女の意外な提案が小狼の表情を強張らせた。
　「……駄目だ」
　「どうして？」
　素っ気ない小狼の返事に、さくらは小首を傾げて聞き返した。
　「汚れるかもしれないし、それに……」
　口ごもる小狼。
　ぬいぐるみが汚れる事を心配しているのも確かだが、それに加えてイヤな記憶が頭の中を過(よ)ぎる。かつて転入初日に付けられてしまったクマさん王子という不本意なあだ名を。さくらがこの間のアレを持ってくれば、十中八九、山崎がからかいに来るはずだから。
　「でも、まだ知世ちゃん達に見せてないんだもん。見せてあげるって言ってそのままだから。一緒にと思ったんだけど……」
　険しくなった少年の顔を伺うように続けるさくら。
　寂しそうに語尾が小さくなっていく少女のセリフを、小狼は最後まで聞き取る事が出来なかった。彼女のそんな声を最後まで聞いていられるほどの度胸は、今の小狼にはない。
　「……分かった。持ってきても良いけど汚さないようにな」
　「……うん！　ありがとう小狼くん！」
　花開くように笑顔へ表情を変えて、さくらは小狼の腕に抱き付いた。
　小狼が「少し大袈裟じゃないか？」と苦笑する。
　だが次の瞬間には、
　「それじゃぁ、「しゃおらん」も一緒に連れてくるから、小狼くんも「さくら」、を連れてきてね？」
　今度は強張るどころか、顔が青ざめる小狼。断るタイミングは今しかないのだが、腕に抱き付かれているこの状況ではさすがにイヤとは言えず、無言で頷くしかなかった。
　三匹のテディベアが仲良く並んでいる姿を想像して、軽い頭痛を覚える。
　もはやクマさん王子の再来は確定的。
　無邪気に当日の計画を練り始めるさくらの横で、小狼の心の中はほんのちょっとだけ憂鬱だった。
　
　ハラリ――。
　
　ハラリ――。
　
　桜の花弁が、二人の後を追いかけて舞い踊る。
　重たかった上着を脱ぎ捨て、軽やかなステップを刻むように――。
　桜が運んできた春は始まりの季節。新しい世界が始まる季節。
　そんな春を運んできた桜色の使者たちに見守られながら。
　二人はゆっくりと歩を進めていく。
　これから始まる新しい世界に小さな不安と、大きな期待を胸に秘めて。
　
　まもなく桜は満開の時期を迎える――。