「どうした？ 帰らないのか」
不意に耳に馴染んだ声が聞こえた。
「小狼くん♪」
振り返るといつの間にかそこには彼が居て。
さくらの声が弾む。
知世は一瞬だけ瞳を閉じた。それから、
「李くんも今から？」
柔らかい身のこなしで問い掛ける。
「ああ…」
そう言って小狼は手にした黒い傘をかざして見せた。
ふと、小さな違和感が彼の脳裏を掠める。
「お前ら、傘は？」
さくらも知世もその手に傘を持っていない。
周囲の生徒たちが一様に傘をかざしていく中。
まさか、忘れてきたのだろうか。心配になり彼はさくらの元へ歩み寄る。
彼の背後をまた１つ、青い傘の花が過ぎていく。
「ん、あるよ。折り畳みだけど」
さくらは心なし頬を染めて、自分の鞄を覗き込む。
そこには確かに、藤隆から手渡された白い折り畳み傘が入っていた。さくらの好きな淡い撫子の絵柄が入った傘。
けれど彼女は、それが小狼に見られる前に鞄を閉じてしまった。もちろん傘は取り出していない。
「？」
「さくらちゃん？」
一瞬、固まったさくらの横顔を知世が不思議そうに覗き込んだ。
知世の目にはさくらの鞄の中に入っていた折り畳み傘がしっかり確認できた。何か使えない理由があるのだろうか。
様々な可能性を考慮するもその疑問は、さくらの目線を追うだけで解決した。
向かい合わせの小狼は気付かなかっただろう。さくらの視線は少年の肩越しの向こう側。３人の会話の横をすり抜けていった青い傘の、一組のカップルに注がれていたことを。
それは長年に渡り、さくらを見てきた知世だから気が付くことが出来た、小さな答え。
（…なるほど）
そしてさくらがちょっとだけ見せた表情の陰りはたぶん、鞄の中に入っている傘への謝罪の言葉を投げかけていたもの。
それから、照れたような。戯けたような顔を小狼に見せ、
「忘れちゃったみたい」
とさくらは言った。
小狼は驚き、すぐ呆れた表情を浮かべる。
「たく…。どうするんだ？」
小狼の問い掛けを、さくらは顔を赤く染め俯いて答えた。
「一緒に…、入れていってもらうのはダメかな？」
さくらがチラリと小狼の傘を見やる。
少女の視線を追いかけて少年もその言葉の意味を理解した。
つまり、さくらが謝罪と一緒に傘を鞄の中に隠したのはそう言うこと。
（相合い傘…）
改めて意識したその言葉が指し示す行為はこんなに恥ずかしいことだったろうか？ 小狼の顔もさくらと同じように赤くなる。
（アラアラ……）
２人して赤くなった様子を知世は微笑ましく見守った。
本当にこの２人はどこまで微笑ましいのだろう。彼女の心をわずかに覆った暗い気持ちも２人のそんな様子を見ていると、キレイさっぱり消えてしまった。
２人が２人のままで居る限り、知世の心に梅雨が訪れることはないだろう。
「それなら問題はありませんわね！」
固まったままの２人を突き動かすよう、知世は少し大きな声を上げた。
「私の傘は折り畳みですので、２人で入るにはちょっと小さいのですわ」
そう言って知世は、鞄から１本の傘を取り出した。
なるほど、確かにそれを広げても、さくらと知世が２人で並んで入るには少々小さい。
少年の赤かった顔が更に赤くなる。選択肢は１つしか無さそうだ、と。
「え？ それじゃ…」
さくらの言葉を制し、知世は続けた。
「帰る方法を考えあぐねていましたので、助かりましたわ。
李くん、さくらちゃんをお願いしますね」
こう言っておけば小狼には充分。さくらを濡らさずに帰すには相合い傘しか方法がないと思い込むはずだから。
知世はさくらへ目配せをし、少女もそれを察した。
「それじゃ小狼くん、お、お願いします」
「あ、ああ」
あれよあれよと事態が進展してしまったことを訝しがりつつ、小狼は雨空へ向かって傘を構える。
チラリと知世へ視線を走らせるが、彼女は既にどこからか取り出したビデオカメラで、万全の撮影態勢を整えていた。
「……フゥ」
さくらに気が付かれないよう小さくため息をつきつつ、己の傘を開く小狼。
「ほら。い、行くぞ」
「ハ、ハイ…」
羞恥と緊張ゆえか、２人はぎこちない動きと言葉を交わし、１つの傘に収まった。
やがて柔らかい雨の音が２人を包み込み、知世が嬉々とした表情で２人を撮影しながら着いてくる。
彼女は降って湧いた撮影のチャンスに喜びながら、カメラを回し続けた。
１分１秒でも愛しい人の初々しい欲望を見逃さないように。
（ハァ――……）
内心ため息をつき、それでも小狼は顔を赤くしながら家路を急いだ。
途中、当然のようにさくらを濡らさないようにと気を遣ったつもりが、逆に傘を真っ直ぐに差して欲しいと怒られたりしながら。
降り続く雨は優しく３人を包み込む。
まるで世界には３人だけしかいないよう、その風景を切り取って。