薫風

BGM : 「ARIA The ANIMATION ORIGINAL SOUNDTRACK」より
No.20 「天気雨」

 水面を渡って来た涼しい風が頬の熱を奪っていく。
 
 大きな桜の木に体重を預け、小狼は動けずにいた。
 彼の左肩にちょこんと頭を寄せ、さくらが寝息を立てている。
 彼女の膝の上には読みかけの本が伏せられたまま。
 
 初夏の午後。
 木陰の空気は昼寝にはもってこいの柔らかさ。
 ペンギン公園を抜け、目の前の池の冷気をまとった風が心地良い。
 
 外で読書というよりは昼寝をしに来たみたいだ。
 小狼は本の上に添えられた彼女の指を見ながらそう思った。
 
 そよ風がさくらの前髪を揺らす。
 良い匂いが鼻腔をくすぐる。多分、彼女が使っているシャンプーの香り。
 何だか分からない甘い気持ちが沸き上がってくる。
 
 彼女の服装は夏らしいノンスリーブの水色のワンピースと、お揃いのサンダル(ミュールというらしい)。
 被っていたつばの広い麦わら帽子はお役御免。彼女の傍らで同じように寝息を立てている。
 
 小狼の視界に飛び込んでくる少女の白い二の腕。
 柔らかそうだな……。
 肩口から始まる丸みを追いかけて。
 薄い布地に浮かび上がる鎖骨。
 そして優美なあごのラインへ至る。
 
 開きかけの口とそれを縁取る柔らかそうな唇。
 今、この木陰だけが切り取られたように。
 夏の暑さは忘れ去られ、セミの声は遠い。
 まるで夢の中にいるような、穏やかな、2人ぼっちの時間。
 
 再び吹き抜けた微風が、彼女の前髪を揺らす。
 さくらが起きる気配はない。
 赤ん坊と同じ無防備な寝顔はそのままに。
 
 小狼の指がそっと顔に掛かった髪を払ってやる。
 絹糸に似た滑らかな手触り。
 吐息がその手の平を温め……。
 
 彼がキスをしようと顔を寄せたとき、彼女の顔は彼の体に沿うようにして倒れ込んだ。
「あ……」
 さくらの頭はちょうど小狼の膝の上へ。
 横顔のまま、小狼に膝枕をされている。
 やっぱり起きる気配はない。
 
 いや、身じろぎをした彼女は、身体を仰向けにして。
 真っ直ぐ小狼を見つめる。
 眠たげな眼(まなこ)のまま。
 小さく唇を動かした。
 
 その声が小さすぎて、あるいは寝言だったのか、小狼には聞こえなかった。
 彼女は、再び穏やかな寝息を立て始める。
 連日の部活動か、先日の疲れが抜けきっていないのかもしれない。
 
「フ……」
 小さく息を吐き、彼は放り出された読みかけの本と、自分の本にしおりを挟み、鞄の上に置く。
 少女の髪を梳き整えながら囁いた。
「おやすみ。俺の…(眠り姫……)」
 
 三度(みたび)、吹き抜けた穏やかな風を、前髪で感じつつ。
 大きな桜の木に身を預け、小狼も瞳を閉じた。
 
 初夏の午後。
 その木陰だけは暑さを忘れたように。
 優しい時間が流れていた――。
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