冬空の下、その手の温もりを……

「ハァーー……」
　小狼は足下から染み入る冷気と、待ちくたびれて溜まり始めた苛立ちを、まとめて解き放つよう白い吐息に載せて吐き出した。それは僅かな間だけ漂い、別れを惜しむ間もなく冷たい外気へと解(ほど)けていく。
　灰色の雲にすっぽりとフタをされた空が、まるで夕方のように辺りを暗くしている。お昼を過ぎたばかりだとはとても思えない。
　もしかして雪でも降るんじゃないだろうか？　彼は恨めしそうに重たい空を見上げる。いまだ日本の冬の寒さに慣れない彼の心は、それを想像するだけであの空のように重く沈んでいく。「今朝の天気予報がちゃんと見られていたら……」と、小狼は心の中で独りごちた。
「ハァーー……」
　再び漏れた吐息は溜め息に近い。
　微風に煽られて、風下へ消えていくその白く淡い影をじっと見据える。それが誘う軌跡の先に待ち人の姿があるような気がして。
　けれどまだ彼女は現れない。
　小狼は目線を静かに腕時計へ移した。待ち始めてから既に30分が経過しようとしている。軽く肩を竦めると両手で小さな空間を作り、彼はそこへ、
「ハァーー……」
　白い息を吐き出した。
　毛糸の手袋を通して注がれる温かい吐息。指先がほんのりと温まる。加えて、とっくに洗剤で消えてしまっているはずの彼女の薫りがふんわりと手袋から薫り、少年は幸せな気持ちになった。
　ふと、彼の脳裏を駆け抜ける既視感。前にもこんな事があったような……。
　小狼の意識が記憶を探ろうと内側へ向けられた時――。
「李くん」
　突然、聞き慣れた声が響く。声のした方へ視線を向ける彼。
　そこにはお馴染みの顔が並んでいた。
「山崎」
　一言、名前を零す。中学に入ってからいつの間にか親友のような関係になった彼、山崎貴史は相変わらず開いているのか閉じているのか分からない瞳で微笑んだ。
「一言だなぁ。「やぁ」とか「どうした」とか他に言う事は――」
「何言ってるの。いきなり声掛けられてビックリしてるじゃない李くんも。ね？　李くん？」
　すかさずフォローに入る三原千春は、彼の女房役兼ツッコミ役を自任している。二人の夫婦漫才は、友人たちの間ではもう当たり前のものであり、なくてはならないもの。その阿吽(あうん)の呼吸は二人が彼氏彼女の関係である上に、幼なじみの間柄と聞かされれば誰もが納得する事だろう。
「ああ。ありがとう、三原」
　千春のフォローに同調する小狼。彼女が機転を利かせてくれるお陰で彼はさくら共々、貴史の言動に振り回されずに済んでいる。
「李くんはさくらちゃん待ち？」
　もう一人、眼鏡を掛けた少女、柳沢奈緒子が興味深そうに聞いてきた。将来は作家になると公言している彼女は「話のネタ」を蒐集する事に余念がない。ちょっとでも変わった事があれば、すぐにメモを取るクセが付いている。さながらそれは新聞記者のようだ。
「ああ。アイツが忘れ物してな」
　そう言って小狼は彼女の姿が消えた昇降口へ視線を走らせる。
「フ〜ン……」
　ちょっとだけ含み笑いを交じえた奈緒子の声。
「…………なんだ？」
　少年が口元を僅かに歪ませた。
「あ、気を悪くしたらゴメンね。偉いなぁと思って。李くん、苦手なのに寒いの」
　レンズの奥の瞳にはまだからかうような色を残しながら、彼女は柔らかく相貌を崩した。
「ホント。さくらちゃんがうらやましい」
　合いの手を入れる千春はチラリと隣の貴史を見る。
「うん。僕もあやかりたいなぁ……」
　彼はのほほんとした顔で頷いた。
「……もう。そこで何か言ってくれても良いでしょ？　私に」
　千春は素っ気ない返事を返した貴史を叱りつけるように、人差し指で彼の鼻の頭をチョンと押す。奈緒子もその隣で首を縦に振っていた。
「あははは……。ゴメンね、千春」
　一瞬、違和感を抱いた小狼だったが、彼も千春の意見に賛成する。
「全くお前は。もう少し彼女の事を気に掛けてやれよ……」
「そうしてるつもりなんだけど。李くんのように彼女にベッタリって言うのは、さすがにちょっと……」
「俺がっ！？」
　小狼は驚き、目を白黒させた。
　貴史の元々細い目が更に細くなる。面白い物を見つけたと言わんばかりに口角が持ち上がった。
「そうだよ。李くんの溺愛っぷりは有名だもんね。木之本さんへの」
「っ！！」
　小狼の顔が一気に沸騰するような勢いで赤く染まる。熟したリンゴでももう少し色が薄いと思えるくらい真っ赤だ。マンガの描写ならば間違いなく頭から湯気が噴き出している事だろう。
「そう言えば二人の間には絶対入れなさそうって良く聞くね。李くん、格好いいから狙ってる子も多いみたいだけど」
　奈緒子も納得した顔で貴史の言葉を引き継いだ。
「もう！　二人とも！　お付き合いしてる人だったら誰でも――」
　一応、フォローに入る千春だが、貴史、奈緒子の言っている事はあながち間違いではないため、強くは反論できない。むしろ小狼さくらカップルに対する羨望の方が強くなった。
　小狼の思考回路は恥ずかしさのあまりオーバーヒートを起こして動かなくなっていた。口を真一文字に引き結び、まるで嵐が過ぎ去るのを待つようにじっと恥ずかしさに耐えている。
「さくらちゃんの周りに男子が集まってくると、いっつも怖い顔で見てるもんね、李くん」
　現場の状況を思い出しながら続ける奈緒子。
「……そう言えばそうだね。さくらちゃんトコに来る男子って、みんな二人以上だったような。あれってやっぱり李くんが怖いから、かな」
　千春もいつの間にか奈緒子の言葉に納得し、「小狼のさくら溺愛説」に加わっている。
「そうそう。いつも李くんが木之本さんを見張ってるから近づけないって苦情を良く言われるよ。それに――」
　貴史も真っ赤になった小狼を面白そうに眺めながら話を膨らませていく。
「二人は結婚の約束をしてるんじゃないかとか、二人とも一途そうだから行き着く所まで行っちゃってるんじゃないかとか」
　そこで小狼の表情がピクリと動く。
「ちょっと待て。それは誰が言ってるんだ？」
　恥ずかしさで真っ赤になっていた少年の顔から急に赤みが抜け、真面目な表情が顔を出す。その顔がグッと貴史に迫った。
「男子の間では良く聞くよ。李くんは噂話とかあんまり好きそうじゃないから知らないと思うけど」
　微妙に視線を泳がせながら貴史は先を続ける。
「…………」
　小狼の表情に先程までの動揺から来る恥ずかしさとは違う、明らかな怒りが浮かんでいる。彼にしてみれば、自分についてどれほど噂を立てられようとそれは一向に構わない。良しに付け悪しきに付けそれは自分自身の事であるし、恐らくそこに真実はないのだから。けれどその噂話、特に下品な物や猥雑な話題の中にさくらが巻き込まれるのは許せない。それではまるで彼女が穢されているようではないか。
「……他にはね。例えば李くんはキスが大好きな事とか、攻めキャラに見えるけど実は受けキャラだとか……」
「おい山崎、それは誰から聞いた？」
　小狼の表情はもはや静かな怒りに燃えていた。その顔色は羞恥とは違った意味で赤くなり、声に凄味が利いている。
　貴史の背筋をほんの少し薄ら寒い物が走った。
「え？　今のはウワサじゃなくて僕が知ってる事だよ」
「なっ！？」
　一瞬、呆気に取られた小狼だが次の瞬間には、再び顔を真っ赤にして怒りだした。
「お前は！　そんな根拠のない！」
「もう照れなくてもいいよ。一緒に明け方のコーヒーを飲んだ仲じゃないか」
　火に油を注ぐような事をさらりと言ってのける貴史。
「えっ？」「キャッ！」「…………！！」
　突如降って湧いた「衝撃の事実」は、もちろん彼の嘘であり、口から出任せを言ったのだろうと三人が三人とも分かっている。分かっているのだけれどこのタイミングでそれを口にされるのはかなりの衝撃だった。
　男の子二人の真剣そうなやり取りを眺めていた二人の少女は、それぞれ異なった反応を見せ、一人はハトが豆鉄砲を食ったようにキョトンとし、もう一人ははにかむように頬を赤らめている。
「何を言ってるんだ！」
　小狼は即座に切り返した。恋愛沙汰の話題に疎い彼ではあるが、今の貴史の言葉が意味する所は何となく分かる。その「一緒に明け方のコーヒーを飲む」というシチュエーションの前段としてどう言った展開が約束されているのかは、さくらと共通の友人である知世から聞かされている。またその約束された展開に置いて、異性でなく同性と一夜を過ごす事を嗜好する、そう言った趣味の者がいる事も。
　そのシチュエーションを思わず想像してしまい、少年は自分で自分の心に焦っているのだろう。怒り一辺倒だったセリフの中に、明らかな慌てぶりを感じさせる声質が交じっている。
「そ、そうよ貴史くん！　へ、変な嘘付かないの！」
　その余波は他にも影響を与えている。奈緒子の顔がほくそ笑んでいるのは仕方ないとして、千春にも動揺が見て取れる。
「あははは。だ・か・ら、照れなくてもいいのに。李くん」
　貴史は更にカマを掛けてみた。
　しかし、
「照れるも何も、事実無根だ！」
　今度はピシャリと否定する小狼。語気は荒いが言葉に含んでいた熱と焦りが薄れ、変わりに呆れにも似た冷たさが覗く。幾ら人が良く嘘や冗談を真に受けてしまう小狼でも、小学校の頃から付き合いのある貴史の、突拍子もない言動には以前よりも焦らなくなった。持ち前の冷静さに加え、さくらと共に培ってきた恋愛の経験が彼を落ち着かせている。取り乱す気配は見せない。
「フーー……」
　貴史は彼をからかえる材料がまた一つ少なくなった事に、内心では残念がりつつほくそ笑んでいた。少々変質的ではあったけれど、そうした性的な物をかぎ分け理解した上で、そう言う話題に対する免疫が付いているという事は、さくらとの関係が良好であり、進展しているという何よりの証拠。彼の友人の一人としてその事実はとても喜ばしいものであった。
　ただしやはり貴史の掛けたカマはかなり偏っていると言うか、一般的ではないのだが。
「それなら……」
　貴史は隣でプリプリしている千春の肩にポンと手を載せ、
「今度、僕たち二人と楽しまない？　李くんと、もちろん木之本さんも一緒に」
「……」「なぁっ！！」「キャー！」
　今度も三者三様の反応。千春はジト目で貴史を見つめ、冷ややかだった小狼の顔色は一気に赤くなり、奈緒子は拳を握った両手で顔半分を多い、かしましく騒ぎ立てている。
　（なるほど。こう言う物にはまだまだなんだ……）
　どうやら小狼はその手の話題の中に彼女の具体的な名前が上ると、まだ初な彼が顔を覗かせるようだ。
　貴史はしてやったりの表情を浮かべた。
「…………」
　小狼は再び顔をリンゴのように真っ赤にして固まる。彼が何を想像したのかは、今までの経緯を紐解けば火を見るより明らかだ。
　小狼の頭の中をピンク色の霞が覆っていく。「明け方のコーヒー」発言に続き、「四人で一緒に楽しむ」とはつまり……。成年向けの雑誌やビデオの中でしか知らない世界が頭の中に再生された。
　――不器用そうな指が想い人の髪に触れ、頬を撫で、愛くるしい唇の輪郭をなぞり――。　――そして彼の唇がキスを落とすと、相手を抱き抱えていたものと反対側の手が徐々に下へと降りていき――。
　彼の年頃にとっては抑えようがない、刺激的な妄想が次々と浮かんでは消え、浮かんでは消え、繰り返し少年の本能を揺さぶっている。
　だが辛うじて前のめりにならないのは、日頃の鍛錬のお陰だろうか。こんな事のためにそれが活かされるというのはどうにも納得の行く物ではないけれど、ギリギリの所で理性がブレーキを掛けてくれている。醜態をさらしていないのは確かである。
「フフ……。どうしたの李くん？　顔が真っ赤だよ？」
　指摘されると余計に意識してしまう。一層赤く染まる小狼の顔。
　更に貴史は追い打ちを掛けた。
「僕はただ「今度、四人で一緒にダブルデートをしてみたい」って思ったんだけど……」
　小狼の顔はもう耳まで真っ赤だ。
　自分は一体、何を想像していたのか、勘違いも甚だしい。己の淫奔さを呪い、その対象としてさくらのあんな姿を思い描いてしまった事に罪悪感が募る。穴があったら入りたい、この場からすぐに逃げ出したいと言う衝動に駆られる。
「フフ、李くんのえっち。何を想像したのかなぁ？」
　貴史は楽しそうに小狼へ問い質した。彼の言動を見ていれば、あからさまに冗談でからかわれていると分かりそうな物だが、今の小狼にその余裕はない。ピンク色の妄想と罪の意識との間で板挟みに遭い、それでもなお彼の本能は止まらない。
　艶めかしい笑顔のさくらが彼を誘っている。小狼は慌てて鼻の頭を抑えた。己の妄想だけで鼻血を出すなんて恥ずかしい真似は断固阻止しなければ。この年頃の男子にとっては仕方のない事でも当人にとっては一大事なのだ。
「貴史くん！　いい加減にしなさい！　李くんが困ってるでしょ！」
　とうとう見るに見かねて、千春が貴史の首根っこを掴み揺さぶった。
「ちーはーるーやーめー……」
　貴史の身体は糸の切れた人形のように右へ左へ。
「大丈夫、李くん？」
「あ、いや……」
　貴史と入れ替わりに小狼の様子を覗き込む奈緒子。しかし小狼は気恥ずかしさからか、全く彼女の方を向く事が出来ない。頬を赤く染め、俯くばかりで生返事を返すのがやっと。端から見た彼の姿はすっかり項垂れたように見える。
「李くんゴメンね。貴史くん、何だか調子に乗り過ぎちゃって……。えと、貴史くんの言う事なんか気にしちゃ駄目だからね？」
　まだ貴史を揺さぶりながら、顔だけを向けて彼に代わり謝る千春。
「そうだよ。男の子だったらしょうがない事なんでしょ？」
　小狼を気遣い、奈緒子も慰めてくれる。
　小狼にしてみればそれは妄想を思い描いていた自分がますます惨めになるだけなのだが、二人の行為を無下にするわけにも行かず、黙り込む。少年の意識が気まずい沈黙に包まれる。
　場の空気が微妙なものへと変わり掛けていたその時――。
「ゴメンねー！　小狼くん！」
　まるで狙ったかのようなタイミングでさくらの黄色い声が響いた。
「あ。さくらちゃん」
「本命が来てくれれば大丈夫ね」
　現れた救世主の姿を確認すると、二人の少女は顔を見合わせて頷き合った。
　駆け足で近づいてくるさくらの顔を、しかし小狼は見る事が出来ない。少年の頭の中ではまだピンク色の妄想が拭い切れていなかったし、何よりさくらに対する罪悪感が強い。
「…………あれ？　千春ちゃんに奈緒子ちゃんに、山崎、くん……？」
　思いがけない友人たちの顔を見つけ、さくらは小首を傾げる。特に千春に首根っこを掴まれたまま目を回している貴史の様子が何とも不思議だ。いや、それ以上に全くこちらを向こうとしてくれない小狼の様子がもっと不思議な光景としてさくらの瞳に映る。
「…………どうしたの？」
　全く返事を返してくれない少年を少女はキョトンと見つめる。
「ゴメンねさくらちゃん。貴史くんがちょっと意地悪しちゃったから」
　千春が相方の非礼を詫びた。
「え？」
　さくらはゆっくり二人の男の子を見比べる。なるほど、彼の様子がおかしいのはそう言う理由か、と何となく納得が行く少女。
「貴史くんは私が叱って反省させて置くから」
「さくらちゃんは李くんを元気付けてあげてね」
　言うが速いか、二人の少女は貴史を連れ、そそくさとその場を後にする。二人とも良く知っているのだ。小狼にとって何よりの特効薬はさくらである事を。他人があれこれと口を出して慰めるよりは、二人きりにさせてあげた方が小狼の回復が早い事を。
「慌ただしくてゴメンねー！　さくらちゃん！」
「また明日ねー！」
「うん！　またねー！」
　引き留める間も与えず去っていく友人たちを、きっと何か用事があるのだろうと思い、さくらは無理に彼女ら三人を追い掛けはしなかった。
　さて。
　問題は目の前の少年である。
「しゃ・お・ら・ん・くん！」
　わざと調子を付けて言ってみるが、俯いたまま顔を上げようとしない彼。よくよく見ると、その耳はやけに赤くなっている。
　千春は貴史が意地悪をしたと言っていたから、何となくその様子は想像できる。去っていく彼に対して、小狼が何も言わなかったのは多分、恥ずかしかったから。
　さくらにも経験がある。貴史にしろ、さくらの親友である知世にしろ勘が鋭い彼らに、時々考えている事をズバリ当てられ、妙な気恥ずかしさを覚える事がある。それはさくらにとって不快な物ではなく、むしろ見抜かれた事に驚いてしまうのだが、小狼と貴史の関係を見ている限り、男の子同士の場合にはちょっと受け答えが違うようなのだ。
「ねぇ？　小狼くん？」
　さくらは優しく呼び掛けてみる。ピクリと彼の肩が動いたがそれ以上の反応は返ってこない。悲しさや悔しさが原因で顔を上げられないのではないのだろう。それは彼の雰囲気から何となく分かる。
　もしかしたら、貴史に言われた何かが原因でいじけてるのだろうか。初めて会った頃の小狼からは考えられないけれど、さくらに対してだけは彼は時々、そう言う姿を見せてくれるようになった。
　普段は落ち着いた大人の雰囲気を持った彼が時々見せるそうした子供っぽい所をさくらはとても可愛いと思う。守られてばかりの自分が守ってあげられる、優しく包んであげられる数少ない機会。
　さくらは柔らかく微笑むと屈み込み、俯いたままの小狼の顔を覗き込んだ。
「どうしたの？」
「うわっ！」
　彼は目にも留まらぬ速さで顔を上げ、湯気を吹き上げそうな勢いで赤かった顔が更に赤くなった。
「クス……」
　さくらはもう一度、柔らかく笑みを零した。
　彼を良く知らなかった頃なら今の反応に逆に驚かされたり、呆気に取られたりしていたのだろうけれど、今は違う。彼がそうした反応を見せてくれるのは、心を許した相手だけだと知っているから。特別な人にだけだと知っているから。
　だって沈着冷静で意地っ張りな普段の彼なら、そうした焦りや慌てぶりは全て胸の奥にひた隠しにしてしまうから。
「大丈夫。私は小狼くんの味方だよ。いつだって」
　少女は少年の心を解きほぐすよう、優しく頬を弛める。その穢れを知らない無垢な瞳が、彼を気遣う、労う純粋な想いを投げかける。少年の全てを理解しているという奢りでも、少年を誰よりも気遣っているという自己満足でもない。ただ彼が大好きだというその想いだけを。
「さくら…………」
　少年が少女の名を呟く。もう彼の表情に驚きや恐れや恥じらいはない。ただただ、目前の想い人を真っ直ぐ見つめている。
「小狼くん」
　少女は少年の名を呟き、一歩近づいた。彼の視線から瞳をそらさず、身体と身体が触れ合うような距離まで。
「私は小狼くんの事が大好きだから、絶対、大丈夫だよ」
　そう言って自分よりも背の高い彼の頭を、優しく撫でてあげる。
「だから、一人で溜め込まないでちゃんと話してね、私に」
　さくらはそう言うと、顔中を笑顔にするのだった。
「……あ、ああ」
　彼女の一言であらぬ妄想がすっかり吹き飛んだ小狼は、気後れしつつもしっかりと頷いて見せた。
「うん。それじゃ早く帰ろう。もうすぐ雪が降ってくるよ？」
「え…………？」
　小狼の顔が一瞬にして曇った。寒いのが苦手な小狼にとっては一大事のようだ。
「気付かなかったの？　こんなに寒いんだよ？」
　さくらはポケットからもう片方の手を取りだし、小狼の頬を両手で挟んであげる。
「なっ！？」
　さくらの突然の行動で、また小狼がたじろぐがさくらは両手を放そうとはしない。
「ほら、小狼くんのホッペ、こんなに冷たくなってる」
　そう言われれば触れているさくらの両手は熱さを感じるほどに暖かい。貴史とのやり取りとのせいで、小狼はすっかり寒さを忘れていたのだった。
　（アイツなりの気遣い？　まさかな……）
　頬に触れている、彼女自身の両腕の間でちょっぴり頬を膨らませたさくらの顔を見ながら、小狼は少しだけ貴史に感謝した。
「……さくら。寒いのは分かったから」
「うん。だから温かさのお裾分け。私の手、カイロで暖かいでしょ？」
　そのカイロをくれれば、もっと暖かいんじゃないか？　と言う疑問を呑み込み、小狼は優しく微笑む。この頬に感じる両手の温もりは如何にもさくららしい温かさ。
「そっか。それじゃ……」
　小狼はさくらの背中へ両腕を回し、そっと抱き寄せる。
「俺からもお裾分けだ」
「え？」
　急に視界が小狼の顔で覆われたと思った時には、さくらの唇が温かい物に触れていた。
　抱き締め合う腕に力を込め、もっとも寒い場所で誰よりも温かさを感じられた二人。
　やがて降り出した雪の中を二人は寄り添って、家路を急いだ。
　不思議なほどに寒さを感じない、まだ白くなり始めたばかりの世界の中を。